FC2ブログ

東三河の秦氏 その6

東三河の秦氏
06 /11 2013

前回は秦氏地名から熊野関連へと走ってしまいました。今回は元に戻し、引き続き秦氏地名を見ていきましょう。以前にも書いたように「豊」の付く地名は秦氏地名の可能性があり、東三河には豊橋、豊川など数多くの豊が付いた地名があります。(注:豊橋や豊川が秦氏地名であると断定はできません)

豊川市御津(みと)町には下佐脇羽鳥と言う地名があります。羽鳥は静岡市や藤沢市で見てきたように秦氏地名です。(注:羽鳥は本来服織あるいは機織が転化した地名と思われますが、秦氏が養蚕や機織りを自らの職掌とするようになり、自分たちを代表する地名に取り込んだものと思われます)


大きな地図で見る
豊川市御津町下佐脇羽鳥を示すグーグル地図画像。

面白いことに羽鳥の近くには高畑、新畑、籠畑、六反畑などの秦氏的地名がありました。御津町はかつて秦氏の居住区であったと想定できます。旧宝飯郡御津には徐福一族が熊野から海路三河湾に入り、上陸した地との伝承もあるそうで、秦氏の居住区があっても不思議ではありません。(注:東三河の徐福伝承に関しては、もっと後の第4部で検討予定)

旧宝飯郡一宮町金沢(現在の愛知県豊川市金沢藤弦31)には旗頭山があり、数多くの古墳も見られます。この山名も秦氏地名の可能性があります。古墳の被葬者が秦氏かどうかは不明ですが、旗頭山古墳群は積石塚古墳で朝鮮などに見られる渡来系のものとされます。


大きな地図で見る
旗頭山一帯を示すグーグル地図画像。山名は表記ない。

旗頭山に関しては幡豆郡との関連が想定され 、愛知県西尾市(旧幡豆郡)吉良町宮崎宮前60には幡頭神社 (はづじんじゃ)が鎮座しています。

社伝によると、景行天皇の御代、日本武尊の東征に従い「幡頭」(はたがしら=副将軍)を努めた建稲種命が、その帰途伊豆海上で薨じ、遺骸がこの岬に流れ着いたので村人が祀り、当社の創祀となったそうです。また大宝2年(702年)、文武天皇の勅により社殿が造営されたとのこと。この伝説通りとすれば、一般的に秦氏地名とされる幡豆郡は秦氏地名ではないことになります。

菟足神社の解説板によれば、豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」との言い伝えがあるそうです。となると、日色野町は秦氏に関係する場所となります。日色野町には西畑、東畑、境畑などの秦氏的地名や、徐福を示すかもしれない山ノ神と言った地名もあります。(注:日色野町に関しては、次回で詳しく検討します)また町畑町町畑(愛知大学がある)と言う面白い地名もありました。


大きな地図で見る
日色野町一帯を示すグーグル地図画像。

石巻神社の奥には嵩山(すせ)と言う地名があります。地名の元になるのは中国五大名山の一つ嵩山と思われ、嵩山は大室山と小室山からなります。大室山と小室山は「富士山麓の秦氏」で徐福に関連して出てきた名前ですが、東三河と富士山麓は徐福で何らかの繋がりがあるのでしょうか?

それは別としても、なぜ中国の山名が東三河に持ち込まれたのでしょう?中国から熊野経由この地に来た(とされる)秦氏が持ち込んだと考えれば、十分筋は通りそうに思えます。嵩山は道教発祥の地とされ、徐福は道教の方士でしたから、この面から見ても秦氏の関与がありそうです。嵩山に関しては以下Wikipediaより引用します。

嵩山(すうざん、ピンイン:song-shan)は、中国河南省登封市にある山岳群。五岳の1つ(中岳)に数えられる。最高峰は太室山の標高1,440m。


そして豊橋の嵩山のさらに奥には神畑と言う地名があります。


大きな地図で見る
神畑を示す地図画像。

ここの他にもう一カ所神畑の地名があり、地図画像からはみ出しますが、南側の山を越えた場所になります。神畑は神服が転じたものと思われ秦氏の匂いがします。(神服の詳細は「富士山麓の秦氏 その31」を参照ください。前回の記事で最初に書いた「大幡」も秦氏地名であると確認できます)


そう言えばこの辺りは、秦氏と関係がありそうな八名郡和太郷に近いエリアです。それにしても、中国における道教、仏教、儒教の聖地であった嵩山(すうざん)をどうしたら(すせ)と読めるのでしょう?不思議でならず、あれこれ考えてみました。

まず(す)は嵩(すう)が縮まったものと考えられます。次に、山は(せん)とも読みます。この読み方は大山(だいせん)に象徴されるように、島根県や鳥取県の山に多い読み方です。そして(せん)も同様に縮まり(せ)になって、結局嵩山は(すうざん)→(すうせん)→(すせ)になったと思うのですが…、いかがなものでしょう?

三河国に島根や鳥取の山に多い読み方がある以上、この地には出雲族もいたことになります。それを証するかのように、御津町に鎮座する御津(みと)神社の祭神は大国主命です。関係あるかわかりませんが、松江市鹿島町御津には御津(みつ)神社が鎮座しています。大社神社(鎮座地:豊川市国府町流霞5)は国司である大江定基卿が三河守として赴任する際、三河国の安寧を祈願して、出雲国大社より大国主命を勧請しています。

どんどん脱線していきますが、豊川市柑子町五反田には出雲神社が鎮座し祭神は出雲醜大臣命(=出雲色大臣命で物部連の祖)と出雲大天女宮命で、三河国造の太祖を祀る社とされています。三河国造に任じられたのは、出雲色大臣命の5世孫・知波夜命で、豊川市白鳥町上郷中1に鎮座する總社は、成務天皇5年、知波夜命が三河国造に任ぜられ、祖神を祀ったものです。出雲色大臣命は三河国造物部連の祖となります。愛知との県境にある静岡県湖西市には大知波と言う地名があり、その名前からして知波夜命に由来しているのかもしれません。

錯綜する物部氏や出雲族、数多いスサノオ系神社、アラハバキ神の存在、三遠式銅鐸など東三河には面白いテーマがゴマンとあるので、本シリーズと関連しそうな部分に限って取り上げていきたいと思っています。

浜松市北区細江町では、これまで9つの銅鐸が見つかっています。谷川健一氏は著書「白鳥伝説 下」(小学館ライブラリ)にて銅鐸製作地を細江町気賀と特定しました。そこは「和名抄」にいう伊福郷に当たるとのことです。

細江町気賀近くの細江町中川には蜂前(はちさき)神社が鎮座しています。由緒によれば、応神天皇期に八田毛止惠が勅命によって遠江国に下向。八田などを開墾して蜂前神社が創建されたとのことです。第19代允恭(いんぎょう)天皇の時代に社号は鳥飼神社、羽鳥大明神となり、延長5年(西暦927年)蜂前神社に戻されました。ここにも八田と言う秦氏系地名や羽鳥の名前があって、秦氏の匂いが残っているように感じられます。

                東三河の秦氏 その7に続く

スポンサーサイト



酔石亭主

FC2ブログへようこそ!