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東三河の秦氏 その12


前回で、豊前国(秦王国)に鎮座する宇佐神宮と東三河の名前の類似に関して考察しました。今回も続けます。

菟名手(うなて)が「豊国直」の姓を賜ったとの「豊後国風土記」の記述に関して、谷川健一氏は著書「四天王寺の鷹」(河出書房新社)で以下のような興味深い内容を書いています。

「ウナデは田の用水の溝を指す。…中略…豊国直菟名手は田に水を引く溝を作ったことからつけられた名であろうから、朝廷は財と技術に優れていた秦氏系の人物に菟名手の名を与えて、豊前国を治めさせたというのが、景行紀や「豊前国風土記」の菟名手の登場の真の意味ではないか」

田に水を引く溝とは「信濃国の秦氏」でさんざん検討してきた和田堰(=秦氏が開削した大井堰)のような用水路を意味しています。景行天皇の時点で既に秦氏(と思われる人物)が用水を開削していたと理解されます。もちろん菟足神社の由緒は宇佐神宮と直接の関係はないし、神社の名前は祭神である菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)に由来しているのでしょう。ちなみに菟足神社本縁によれば「和魂祭於素菟神故名菟足神 即当社南東角自稲羽移居」との記述となっています。

しかし、菟足神社は秦氏の関与があり、菟上足尼命は秦氏と何らかの関係があるのかもしれません。菟上足尼命は「菟足神社略記」によると犬頭神社やわくぐり神社を創建して養蚕や機織りを奨励したので大神として祀られるようになったとされます。(注:犬頭神社やわくぐり神社に関しては別途書きます)

また犬頭神社の社伝によると、菟上足尼命は丹波国から来たとされます。丹波国桑田郡の地名は秦氏が養蚕のため桑の木を植え、絹織物を作ったことに由来します。だとすれば、菟上足尼命は秦氏と関係があるはずです。次に、菟足神社の由緒(昇格碑文)を見ていきます。内容は以下のようになっていました。

大正七年十一月二十二日県社に列せられた際の昇格碑文
菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木濱に宮造して斎ひまつりしを天武天皇の白鳳十五年四月十一日(昭和五十二年より千二百九十一年前)神の御おしえのまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。はやく正六位上の神階を授け給ひ貞観六年二月十九日従五位下に進められしが國内神名帳には正三位と記されたり。…以下略

菟上足尼命は平井の柏木濱にて祀られていたのが、秦石勝によって現在地に祀られるようになったとのことです。菟名手は秦氏系の可能性があるように、菟上足尼命も秦氏系或いは秦氏の影響下にある人物とすれば、うまく秦石勝に接続していきます。なお、物部系の史書「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」巻第10 「国造本紀」には穂国造が菟上足尼命であると記載されており、その内容が昇格碑文にも反映されています。

「先代旧事本紀」は偽書ともされ、「穂国国造」の実態に関しては既に書いたように議論があります。けれども、菟上足尼命が古代の東三河における重要人物であることは間違いなさそうです。また平井なる柏木濱に宮造したとあることから、菟上足尼命は皇族であるとも思われます。

昇格碑文によれば、秦石勝は菟上足尼命を祀る「平井の柏木浜の宮」を現在地に移しています。地図を見ると菟足神社のある小坂井町のお隣に平井町がありました。平井の柏木の浜を探しに早速行ってみましょう。

なお、中央構造線は豊川に沿って走っています。だとすれば、中央構造線が発する気を感知した秦氏は、東三河に上陸後豊川沿いに移動したとも考えられます。現時点では菟上足尼命の足取りを追っていますが、そうした視点も含めて探索します。

                東三河の秦氏 その13に続く

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