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東三河の秦氏 その13


今回は日色野町を出て、385号線を小坂井町方面に向かいます。目的地は菟上足尼命を祀る「平井の柏木浜の宮」。川なのに浜はおかしいと思われますが、当時の豊川河口部は幅が数キロ以上あったと想定され、内浦状態だったので浜と記載したのでしょう。


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グーグル画像。飯田線と東海道本線の間の神明と書かれた森が柏木浜です。

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柏木浜の解説板。

菟足神社の祭神である菟上足尼命はこの地に上陸後、穂の国の国造として治績をあげられたので、薨後この地に祀られた。その後白鳳15年(686年)現在の小坂井の地に遷宮された、とあります。なお、遷宮したのは秦石勝となります。

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鳥居と石の祠。

菟上足尼命は当初ここに祀られていたのでしょうか?だとすれば、菟足神社の元宮に当たります。

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柏木浜の石碑。背後には柏の木が植えられています。

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石碑に関する「小坂井町誌」の記事。

さて、菟足神社の昇格碑文には、菟上足尼命は柏木の濱に宮造りし給い、薨去の後霊を今の小坂井に遷し奉る云々とあります。まさか上陸したその地点に宮造りするはずがないので、どのあたりか探ってみましょう。柏木浜から385号線を日色野町方面に戻ると八幡社がありました。


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八幡社の位置を示すグーグル地図画像。

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八幡社です。鳥居が随分低いようです。盛り土したためこうなったとのこと。

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八幡社社殿。

こちらも解説板はありません。「小坂井町誌」に記載された神社の由緒は大略以下の通りです。

当社は白鳳二酉年菟上足尼命を斎き鎮め奉ったが、その後白鳳十五年菟足神社を小坂井の新宮に遷し奉ったことから、時の住民等はこれを惜しみその跡に一社を建立して誉田別命を奉斎した。中古は菟足神社を菟足八幡宮と称し、平井の八幡社は下八幡宮と称し、菟足八幡宮を参拝するものは下八幡宮も参拝しないと片祈りと言って、祈願完からずとして皆下八幡宮を崇拝した。当社は往古は志賀須賀(しがすか)の渡の海浜に奉祀してあったが天文九年の洪水により社殿はもちろん古文書棟札等一切を流失してその後現在の神域に遷した。

菟上足尼命は薨去した後、上陸地点である柏木浜付近に祀られました。その後、白鳳15年(686年)に小坂井に遷座したので、跡地に下八幡宮が建立されます。ところが、天文9年(1540年)の洪水で一切合財が流されたので、八幡社は現在位置に遷座されることとなったのです。

神社の由緒から宮造りの場所は推定できませんが、社殿の脇に小さなお堂がありました。それを見てびっくりです。

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お堂の内部。

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拡大画像。

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さらに拡大。

いかがでしょう?日色野町のお堂に祀られている徐福(と推定される)石像とほとんど同じではありませんか。全体の造形、片手に巻物を持つ姿、これも役行者像に仮託した徐福像と考えて間違いなさそうです。ただ、かなり新しい石像と思われる点に根本的な違いがあります。この問題をどうクリアすべきか考えてみます。

まず菟足神社もかつては菟足八幡宮であり、下八幡宮も同様に八幡神社なので、こちらも秦氏が創建に関与したと想定されます。下八幡宮は天文9年(1540年)の洪水で一切合財が流され、社殿は賀茂の照山に流れ着いたとされます。しかし、社供神の御神体は重かったため、天文21年(1552年)の再建に当たって、菟足大明神の分身を勧請し、社供神と併せ祀ったとのこと。

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天文21年(1552年)の再建時における棟札の写真。「小坂井町誌」より。

菟足大明神勧請一宇社供神三河国宝飯郡云々とあります。一宇とは1棟のお堂を意味します。問題は社供神ですが、どんな神なのか実態は不明です。これはミシャグチ神(表記は社宮神などさまざまあり)かもしれません。その場合、ご神体は石棒のはずで石像ではないと考えられます。だとすれば、重い御神体の社供神とは、八幡社に供えられた神である徐福の石像を意味すると考えられます。

では、なぜ500年前に洪水に見舞われ、もちろんそれよりずっと古くから祀られていたはずの徐福石像が新しいものに見えるのでしょう?

多分、日色野町のお堂に祀られている徐福像が、以前平井八幡社に祀られていた社供神なのです。社供神は長い年月を経て洪水にも見舞われ、あまりにも摩耗が激しくなってしまいました。そこで比較的近年になり新たな石像を製作して平井八幡社に祀り、古い石像は本来の場所である日色野集落の中心部に移されたと考えられます。そう考えれば、全ての辻褄が合ってくるのです。この推測が正しいかどうか、地元で詳しく調べて頂ければ有難いと思います…。

                東三河の秦氏 その14に続く
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