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東三河の秦氏 その18 徐福伝承の謎


前回でも書いたように、「牛窪記」に関して一般の書籍では詳しい分析がなされておらず、ネット上でも原文の部分的な書き写しがあるだけです。言い換えれば、誰もが簡単に情報を得られる状態になってはいないのです。

そこで酔石亭主としては、写真撮影した原文(もちろん原史料ではなく印刷物です)を掲載した上で、内容の分析を試みることとしました。「牛窪記」は「続群書類従 第21輯 上」の中に含まれており、各地主要図書館で借り出し或いは閲覧可能です。興味があればお読みになってください。では、徐福関連部分の記述をアップすることから始めましょう。

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画像。

ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者。往昔秦氏 熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ。紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ。此国沖六本松ト云濱ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴。後者深。得一種産百物地ナリトテ。御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓。此子孫以秦為氏。長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイへリ。

漢字をそのままではなく適宜変えた部分もあります。正確には画像の原文で見ていただければと思います。

ここ東海道三河国宝飯郡牛久保の庄は、秦氏が遠い昔熊野権現を常左府(とこさぶ)長山の郷に勧請した。崇神天皇の時代に紀州手間戸の港から徐氏古座侍郎が舟を浮かべて、三河国沖の六本松と言う浜に来た。…中略… 徐氏は秦国の出なので、子孫は秦をもって氏とした。長山の神は常に天地を長きに亘り守られたので庄の名を常左府と言った。

古文、漢文の類は苦手なので、例によって現代文が必ずしも正しいとは限らない点お含みください。秦氏と徐氏(徐福の子孫)が「牛窪記」の最初に書かれている点は注目に値しますが、一読して矛盾を感じました。

秦氏が熊野権現(=徐福の霊)を常左府長山の郷(現在の豊川市牛久保町、下長山町一帯と想定される)に勧請したとの記述は、秦氏が主体者となっており、彼らが徐福伝承を持ち運んだと確認できる内容です。これは酔石亭主の現在の考え(徐福伝承を持ち運ぶのは秦氏)にも沿っています。(注:熊野権現が徐福の霊を意味する点は後の回で書きます。なお熊野権現の表現にも熊野系の影響が見られます)


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牛久保町一帯を示すグーグル地図画像。

現在の牛久保町付近と思われる長山の郷に秦氏が入り、その地で「牛窪記」が書かれたのですから、牛久保町一帯は秦氏と徐福伝承に関して日色野町と並ぶ超重要地点であると言えるでしょう。(注:関連する神社は長山熊野神社ですが、鎮座地は牛久保町のお隣の豊川市下長山町西道貝津87番地となります。下長山町は「牛窪記」に記載された長山の郷に当たると推定されます)

ところがです。次の文では、徐氏古座侍郎(徐福の孫)が三河国に渡来して、徐氏は秦国の出なので、子孫は秦をもって氏としたとあります。前文から一転して、古座侍郎が主となり、秦氏が従になってしまいました。

古座侍郎の古座は明らかに熊野の地名に由来しており、熊野信仰の東三河流入に関係しています。東牟婁郡古座川町には清流古座川が流れています。機会があれば一度行ってみたいと思っています。

古座川町と古座川に関しては以下のホームページを参照ください。
http://www.webnanki.jp/kankou/kzag_ind.html


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古座川町を示すグーグル地図画像。
(注:後の回で出てきますが、「牛窪記」では徐福が着岸の地古座に留まり、後に熊野山に入ったとあります。徐福と孫の古座侍郎をうまく繋げているようです)

ここで、なぜ徐氏が主で秦氏が従となり、前の文と次の文が矛盾した内容になったのか、理由を考えてみます。

まず、秦氏が熊野権現(=徐福の霊)を勧請した時代は一番古いので頭に持って来ざるを得ません。(秦氏が実際に徐氏古座侍郎の子孫だとすれば、熊野権現を勧請したのは古座侍郎とすべきです)そこから多分700年以上遅れて熊野信仰と共に熊野の徐福伝承が流入します。古座侍郎は平安末期に東三河に入った熊野系を象徴する名前なので、当然秦氏の後に置かれます。

ところが古座侍郎は秦国出身である徐福の孫との位置付けになっているため、秦氏の東三河移住より時代が早くなってしまいます。よって、秦氏は徐氏の子孫とせざるを得なくなったのです。相矛盾する内容を纏め上げねばならなかった作者の苦労が、目に見えるようですね。こうした切り分けが必要な部分は今後も出てくるので、注意深く見ていく必要があります。

古座侍郎の出発地は「紀州手間戸」とあります。この場所はどこであるのか特定できませんが、ストーリーからすれば多分古座川町かお隣の串本町(旧古座町)になるはずです。一方、ネット上には牛間戸と表記されたものが多くなっています。理由は「牛窪密談記」で手間戸が牛間戸と誤記されたこと、榊原康彦氏の「天武天皇の秘密と持統天皇の陰謀」(彩流社)に牛間戸と表記あり、場所を邑久郡牛窓に比定していることによるのでしょう。

もちろん邑久郡に秦氏地名もありますが、紀州となっている以上牛窓ではありません。邑久郡牛窓周辺の秦氏地名は以下を参照ください。大変な労作です。
http://miwa1929.mond.jp/index.php?%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%86%85%E3%81%AE%E7%A7%A6%E6%B0%8F
(注:「牛」と「手」は書き方によっては似通ったものとなり、誤記の原因になったと思われるので、酔石亭主は最古の史料である「牛窪記」の記述「手間戸」が正しいとしておきます)

「牛窪紀」には「秦氏は熊野権現(=徐福の霊)を常左府(とこさぶ)長山の郷に勧請した」とあります。この「常左府」と言う変わった地名に関して見ていきましょう。常左府は常寒、常荒とも表記され、あまりいい意味ではなさそうな雰囲気です。

この地名由来は「牛窪記」に記載あり、「長山の神は常に天地を長きに亘り守られたので庄の名を常左府と言った」とのことで、非常に良い意味を示しています。どうもすっきりしませんね。多分この居心地の悪さは、由来と地名がきちんと結び付いていないことによると思われます。筋が通るように別の角度から由来を考えてみましょう。

「常」は常世国の常ではないでしょうか?常世国は海の彼方にある理想郷で不老不死の地と考えられています。常世国とは正しく徐福が探し求めた蓬莱の地なのです。次に、「左府」は左大臣の唐名です。そう考えると、常世国を探し求める偉い人(徐福子孫)が唐から来た地が「常左府」となります。これで表記と意味がきちんと整合しました。

            東三河の秦氏 その19 徐福伝承の謎に続く
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