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東三河の秦氏 その20 徐福伝承の謎


土地鑑のない場所であれこれ方位を考えるのは本当にしんどいですね。さて前回で、「(六本松を御津町の浜とする)地元史の記述に大きな疑問を感じます。」と書きました。もうおわかりでしょうが、理由は至って簡単。地図画像の各方位は牛久保を中心として引かれるべきもののはずで、それが大きく外れていればどこかに誤りがあることになるのです。

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方位を示す地図画像を再度掲載。(注:方位線は前回分から若干の修正をしています)

いかがでしょう?二本の線の中心は牛久保から北西にずれていますね。多少のずれなら許容範囲と言えますが、これではとても許容できません。地図画像ではスズキの豊川工場の下辺りが二本線の中心で、工場南側の地名は何と「兎足」(豊川市白鳥町兎足)となっています。何か隠れた意味もありそうですが、残念ながらそこまでの追及はできません。

ネット上には、「草薙剣が熱田神宮に収まる前には菟足神社に保管されていた」との伝承もあると言った説が散見されます。どんな資料に基づくのか記載がなく不明ですが、白鳥町には白鳥神社が鎮座し、町内に兎足の地名があることから発生した説かもしれません。

話が横にそれたので元に戻します。仮に上陸地点が御津町の六本松で正しいとして、牛久保から見た御津町の浜はどの方向になるでしょうか?方位を示す地図画像によれば、ほぼ真西とわかりますね。一方、「牛窪記」の記述を見ると、六本松は未申(ひつじさる)の方角で、牛久保からは南西となります。ですから、御津町の浜は「牛窪記」の記述に合致しないことになります。

ひょっとしたら、当時の牛久保や長山は別の位置(スズキ豊川工場付近)にあったのかもしれません。常左府である牛久保の庄や長山の郷が、現在の牛久保町や下長山町でなかったとしたらどうなるのでしょう?「その19」で、「同じ地名が二つとも現存する以上、定着地はここに間違いなさそうですが、実はそう簡単ではありません。」と書きましたが、簡単でない理由はここにあったのです。

既に書いたように「牛窪記」に記載された方位は、常左府(牛久保の庄)を中心に据えていると想定されます。そこで、現在のスズキ豊川工場一帯が常左府の中心と考えてシミュレーションを試みます。そのためには、常左府をもっと広域に設定するしかなさそうです。方法は簡単。常左府(常寒)の地名が他にないか探るのです。

と言うことで、常左府の地名の広がりを見ていきましょう。御津町から368号線で国坂峠に向かうと途中に徳寒(とくさぶ)と言う地名があります。常左府(とこさぶ、常寒)と徳寒(とくさぶ)。元は明らかに同じ言葉です。徳寒の先には中畑と言う秦氏地名もありました。


大きな地図で見る
豊川市御津町金野徳寒を示すグーグル地図画像。

次に北東方面に目を向けます。飯田線の三河東郷駅(新城市)の東には常寒山(とこさぶやま)があり、西の尾根は船着山へと続いています。


大きな地図で見る
常寒山、船着山を示すグーグル地図画像。

常寒山は標高480mの信仰の山で山頂には、御嶽神社、浅間神社、金毘羅神社の石祠が並んでいます。詳しくは以下を参照ください。
http://www.katch.ne.jp/~mota/130kiko12.html

船着山はピラミッド型の神体山と言えそうで、秦氏が目印とするのに適していると思えます。けれども、船着山とは実に妙な名前です。上記のホームページによれば山頂には解説板があり、「くびら岩(宮毘羅岩)」の謂われとして、以下の内容が書かれていたとのこと。

太古の昔この辺りが海だった頃、神々たちは舟に乗って往来をし、この岩に舟を繋いだと 伝えられている。「舟着山」発祥の元といわれる。祀ってある石像は金毘羅さまであり航海の安全を守る神で船人が最も崇拝する神である。(注:吉田(豊橋)からの荷駄は豊川より船で船着山山麓の船着場に運ばれ、馬の背に荷を積み替えられていたことから船着山と名付けられたとの説もあり)

地名から常左府(=常寒、牛久保の庄)の範囲を拡張できそうなので、以上の内容をベースに地図に書き込んでみました。もちろんこれは単なるイメージです。

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常左府(=常寒)の範囲を推定する地図画像。

赤い線の左のAマークが徳寒で、赤い線右上角の東に常寒山があります。赤い線は徳寒、常寒山、星野を繋いだ形としています。スズキ豊川工場は八幡駅のほぼ南なので線内に収まります。水色の線は常左府の地名は別として、本野ケ原、八幡宮、星野を繋いだ線となります。何とかこの線内にスズキ豊川工場が収まります。

つまり、スズキ豊川工場辺りを常左府の中心地として方位線を引けば、「牛窪記」、「牛窪密談記」の記述にほぼ適合することになるのです。しかし、平安中期に編纂された「和名類聚抄」によると宝飯郡は13郷とされています。赤い線、水色の線の範囲を牛久保の庄とするにはあまりにも広すぎます。徳寒と常寒山の地名は、多分秦氏の移動により付けられたのでしょう。お得意の地名持ち運び技ですね。

以上から、画像に引いた黒い線内が常左府の範囲を示すものと結論するしかなさそうです。(注:黒い線内の範囲もあくまで大ざっぱなイメージです)でもそうなると、御津町が牛久保のほぼ真西となって方位に矛盾が生じます。「牛窪記」をベースとした検討は、ここに至って身動きが取れなくなりました。

               東三河の秦氏 その21 徐福伝承の謎に続く
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