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東三河の秦氏 その22 徐福伝承の謎


「牛窪記」の検討を続けます。徐氏古座侍郎が三河国に来たのは崇神天皇の時代と書かれています。これは多分、熊野本宮大社の創建が崇神天皇期とされることに影響を受けているのでしょう。

徐氏古座侍郎も奇妙な表現です。徐氏すなわち徐福子孫は徐福の「福」や「徐」の字を採るケースが多くなります。例えば800年の富士山噴火により寒川に逃れた福岡徐教です。(注:福岡姓は徐福長男の福永が改名したもの。他に徐保、徐明、徐房、徐仙、徐林、徐万、福寿など。徐福の子の名前には諸説ありますが、伝説にすぎません)ところが、古座侍郎の名前はこの原則に当てはまらないのです。

そこで、古座侍郎の名前を分析してみます。参考になるのは「参河寶大全」で、この史料には以下のような記述があります。

官位古座侍郎ノ高官タレハ三河二来タリテモ富ミ栄エ…以下略。一枚目の画像

トコサブト云ヘリ蓋シ徐氏ノ官名ヨリ地名トナリシナラン…以下略。二枚目の画像

原文は「その19」の画像二枚を参照ください。内容はやや意味不明ですが、古座侍郎は官位のある高官で、常左府の地名は徐氏の官名すなわち古座侍郎に由来すると書かれているようです。なお、「高官タレハ」は「高官タルハ」の誤りと思います。ではどの部分が官名なのでしょう?

まず古座ですが、既に書いたように古座姓は古座川町や旧古座町に由来しています。郎は男を意味していると思われます。すると官名に当たるのは「侍」の部分になりそうです。「侍」は「さぶ」とも読むので、「参河寶大全」は、侍の「さぶ」に左府の別字が当てられていると推測したのでしょう。しかし左府が侍であれば、「参河寶大全」の古座侍郎ノ高官に整合しないのです。

侍に関しては以下Wikipediaより引用します。

元来は有力貴族や諸大夫に仕える通常は位階六位どまりの下級技能官人層(侍品:さむらいほん)、つまり貴族に連なる国家レベルの支配階層の底辺を成す、実務者階級を指す。つまり朝廷に仕える官人でありつつ、同時により上位の貴族・官人層に伺候して朝廷の実務を担う身分が「侍」で、出世した場合には、晩年にようやく貴族の末席たる五位まで昇進することもあった。


いかがでしょう?「参河寶大全」に従うと、古座侍郎は古座村にいた下級技能官人である男となり、高官ではなくなってしまうのです。また常左府の「常」はどう理解すればいいのかと言う問題も出てきます。少し悩ましくなりますが、実は「その18」で答えを書いています。

常左府の常は常世の常、左府は左大臣の唐名となります。よって常左府は、常世国(=蓬莱)を探し求める偉い人(徐福子孫)が唐から来た地になるはずです。そう考えれば名前と意味の辻褄も合いますね。よって古座侍郎は、蓬莱の地を探し求め古座村から来た偉い男となるでしょう。なお古座姓は非常に少なく、三重県熊野市に2人おられます。

続いて、長山の郷に勧請された熊野権現を見ていきます。秦氏により常左府長山の郷に勧請された熊野権現(=徐福の霊)は、現在の長山熊野神社(鎮座地:豊川市下長山町西道貝津)となります。


大きな地図で見る
鎮座地を示すグーグル地図画像。

神社の遷座以前の縁起は以下のようになっていました。

欽明の丙寅の歳、天下に疫病がはやり、多くの死者が出た。このとき、村中に怪異が三つおきた。ひとつは、社内の大木の梢に三光があった。二つ目は、花を一枝持った神人が現れ、『さきにほふ ことしのはなを なかめみて たみのくるしみ そらにしらるる』と歌を詠んだ。三つ目は、村の童子が、神がかりし、『吾は、紀州牟呂郡熊野本宮なり、疫病を除き、村人を助けよとの神託を得た。吾はここに長く留まるから祭れ』と言った。

創建時期が崇神天皇から欽明天皇とかなり下ってしまいました。この縁起に、「吾は、紀州牟呂郡熊野本宮なり」とあることから熊野系の影響は明らかです。縁起を見る限りでは、社殿が建てられたのは熊野信仰が東三河に流入した平安末期以降、或いは鎌倉時代に神保氏が着任してからとも思われます。もちろんこの時点で、徐福系秦氏は既に消え去っていることになります。

豊川市のホームページには以下のように記載あります。

熊野神社概要:熊野神社の創建には諸説あり1説は欽明天皇の御代(539~571年)、村で大木の梢が光ったり、神の化身と思われる人物が現れ詩を詠んだり、子供が神ががかりになり熊野神社からの神託を口にしたりと不思議な出来事が続いた為、熊野神社の分霊を勧請したと伝えられています。1説は崇神天皇の御代(紀元前97~紀元前29年)、徐氏古座侍郎という人物が常寒長山の里(現在の豊川市下長山町)に熊野権現を勧請し崇敬したところ、多くの作物が取れ館を構えたと伝えられています。一般的には平安時代に編纂された「三河国内神名帳」に記載が無い為、それ以後に勧請されたと推定されています。中世に入ると領主である牧野氏から崇敬庇護され、享禄元年(1528)には牧野成勝が社殿を改築しています。

「牛窪紀」には「秦氏は熊野権現(=徐福の霊)を常左府(とこさぶ)長山の郷に勧請した」とあるのに、お役所は「徐氏古座侍郎という人物が常寒長山の里(現在の豊川市下長山町)に熊野権現を勧請し」と書いています。いかに混同しやすいかよくわかりますね。まあ既に何度か書いたように、古座侍郎の実体は徐福系秦氏ですからその意味では混同ではないとも言えますが…。

要するに創建時期は、お役所でもよくわからないと言うことです。なお、平安時代に編纂された「三河国内神名帳」に記載が無いとありますが、熊野系が平安末期に入る以前は、秦氏が邸内に氏神を祀る私的信仰の時代だったからと推定されます。それはさて置き、長山熊野神社は秦氏や徐福との関係からしても超重要なので、どこまで迫れるかは不明ですが、詳しく調べる必要があるでしょう。

           東三河の秦氏 その23 徐福伝承の謎に続く
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