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東三河の秦氏 その26 徐福伝承の謎


ここで中国側における徐福を見ていきます。(注:「記紀・風土記の秦氏 その4」において既に書いた内容です)

「後漢書」(巻八十五・東夷列傳)には、徐福に関連して以下のような記述が見られます。

又有夷州及澶州。傳言秦始皇帝遣方士徐福将童男女數千人入海、求蓬莱神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此州、…以下略

また、夷州と澶州が(会稽郡の海の彼方に)ある。秦の始皇帝はそこに方士徐福を派遣し、徐福は幼い男女数千人を率いて海上に出て、蓬莱の仙人を求めたが会うことはできなかった。徐福は罰を恐れて帰国せず、その州に留まった。

一般的には会稽郡との位置関係から、夷州は台湾で澶州が沖縄とされています。しかし、夷州は単なる野蛮な国の総称であり特定の国・地域を指してはいないと思われます。

「隋書」の倭国伝には裴清が倭国に派遣された記事があり、以下の記述が見られます。

又至竹斯國、又東至秦王国。其人同於華夏、以為夷州、疑不能明也。

また筑紫国に至る。また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じである。それを夷州(野蛮な国)とするのは疑わしいが明らかにはできない。

「後漢書」と「隋書」の記述を突き合わせると、徐福は夷州である秦王国に来たとも言えそうです。けれども、この解釈には相当無理がありますね。もう少し中国側の記述が詳しいものであれば、徐福と秦氏をうまく結びつけられたかもしれません。

時代が下ると徐福と秦氏の関係はより明確になります。日本の僧である寛輔(弘順大師)が顕徳5年(958年)に中国に渡って、徐福は日本に渡来し子孫は秦氏を名乗ったと語り、それを義楚が自分の著書である「義楚六帖」に記載しました。

この内容が中国国内で普及し日本に逆輸入され、徐福の日本渡来とその子孫が秦氏であるとの説が広まったものと推測されます。文献上で徐福と秦氏が連結したのはこれが最初かもしれません。そして時代が下ると徐福伝承は熊野系とも連結していきます。

弘安2年(1279年)に元の支配を逃れ来朝した無学祖元は、そのおよそ2年後に熊野を徐福渡来の地として詩を献じました。彼は自らの境遇を徐福に重ね合わせたのですが、これが徐福と熊野を結び付ける最初の記述となったのです。新宮の阿須賀神社に建つ無学の詩碑は以下の通りです。

 献香於紀州熊野霊祠 
「先生採薬未曾回 故国山河幾度埃 今日一香聊寄遠 老僧亦為避秦来」

紀州熊野の霊祠に香を献じる
(徐福)先生は不老不死の秘薬を採りに出かけ、いまだに帰って来ません。故国の山河は幾度となく起きた戦乱で荒れ果てています。今日は(熊野の祠に)香を手向けます。老僧となった私もまた先生のように秦(戦乱の故国)を避けて(日本に)やって来ました。

それが正平23年(1368年)における絶海の詩「熊野峯前徐福祠云々」へと繋がって、神保氏が長山熊野神社でこの部分を加筆、遂には「牛窪記」に引用された(と推定される)のです。歴史は長い時を越え、綿々と受け継がれていくものだと理解されますね。

               東三河の秦氏 その27 徐福伝承の謎に続く
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