FC2ブログ

 東三河の秦氏 その28 徐福伝承の謎


今回は前回で飛ばした「徐林ハ肥前(佐賀県)金立山ニ住シ」から検討したいと思ったのですが、その前に下の画像を参照ください。

007_convert_20130713053318.jpg
画像。「牛窪記」の別の記事です。

金山権現大般若寄進事
金山権現ハ牛窪ノ鬼門ニアリ。是モ秦氏ノ祖神肥前金立山権現ノ同社也。


金山権現は牛久保の鬼門(北東方面)にあり、これは秦氏の祖神である肥前金立山権現と同じ神社であると書かれています。金立山権現が秦氏の祖神とあるので、徐福を意味しているものと理解されます。ただ、「徐林ハ肥前(佐賀県)金立山ニ住シ」とあるように、金立山に住したのは徐林なので、記述が矛盾します。

矛盾した部分を一旦横に置き、「牛窪記」に従えば、金立山権現=徐福、金山権現=徐福となります。言い換えれば、牛窪の鬼門にある金山権現は徐福を祀る神社となるのです。

「牛窪記」が佐賀県の徐福伝承まで取り込んでいるのには驚かされますが、まず牛久保の鬼門にある金山権現に関して鎮座地や伝承を調べる必要があります。ただ地図画像を見ても金山権現などと言う神社はありません。一体どこにそんな神社があるのでしょう?

神社の名前は合祀などで変わることもあり、取り敢えず、牛久保の鬼門方向(北東)に線を引いてみます。すると、八幡社(鎮座地:牛久保町常盤164で、地図上には表示ない)の先に中條神社(鎮座地: 豊川市中条町宮坪22)が鎮座していました。

005_convert_20130712082414.jpg
長山熊野神社から北東に線引きした画像。

北東ライン上の八幡社は鎮座地が牛久保町内であること、由緒も関係なさそうなことから除外します。

位置関係からして金山権現に相当するのは、中條神社となりそうです。この推定を確かめるため、中條神社を訪問し、同社の由緒を調べる必要があります。早速行ってみましょう。


大きな地図で見る
中條神社を示すグーグル画像。

022_convert_20130712082522.jpg
鳥居越しに見た中條神社。

024_convert_20130712082546.jpg
中條神社拝殿。

023_convert_20130712082616.jpg
解説石板。至って簡単な解説板です。

御祭神は金山彦大神と伊邪那美大神で、金山彦神社に熊野神社を大正3年に合祀して現在の中條神社となったようです。熊野権現は徐福であり、肥前金立山権現と金山彦大神はいずれも「金」の字が付くことから、関係がありそうです。でも、それだけでは論理的に繋げられません。御祭神に関して、金山彦大神は鉱山の神で、伊邪那美大神の嘔吐物の中から生まれたとされます。そうした関係からこの二人の神様が祀られているのでしょう。

027_convert_20130712082707.jpg
中條神社扁額。

豊川市観光協会のホームページによれば、由緒は以下の通り。

「三河国内神名帳」に従五位上加知天神とある社で、河内國古市郡槇庄・真木定観の守護神でした。定観は後醍醐天皇を奉じて吉野山にて最後まで戦った士で、その後裔刀鍛冶となり、この地に居住し加知天神を祀りました。天正3年(1575)5月、長條の合戦の兵火により社殿、古文書を失居ましたが、慶長16年(1611)の棟札に奉新造立金山大権現とあります。

豊川市観光協会のホームページ。
http://www.toyokawa-map.net/kanko/chujojinja.php

豊川市記載の由緒でもあまり詳しい内容はわかりません。さてどうしたものかと思っていると、境内にはもっと詳しい解説板がありました。

026_convert_20130712082646.jpg
解説板。

延暦年間(782年から805年)に里人が熱田神宮から日本武尊・天照大神を勧請して神号は加知天神とのことです。また天安年間(857年から858年)に渡津宿から金山彦大神を遷座させたとのこと。平安中期(年代不詳)には熊野権現が勧請されています。間を飛ばして、慶長16年(1611年)には金山大権現を造営とのことです。

豊川市観光協会のホームページと解説板のいずれにも金山大権現の名前が出てきますので、「牛窪記」に書かれた金山権現とは現在の中條神社であると確認されました。

ただ、金山大権現の造営が慶長年間では新しすぎます。また金山権現と肥前の金立権現がどう結び付くのか、その経路はいまだに不明です。うまく詰め切れないのですが、加知や金山の名前は鍛冶に関連しそうなので、取り敢えずその視点から探りましょう。

まず、中條神社が鎮座する豊川市中条町付近はかつて宝飯郡中條郷鍛冶村と呼ばれていました。近くには金屋町や金塚町などの町名もあります。日色野町の熊野大神社の棟札(天文23年4月22日)にも、鍛冶村の大工の名があります。

加えて同社解説板には、加知天神、金山彦大神、金山大権現などの名前が出てきます。よって中條神社は、地元の鍛冶職人が鍛冶神を祀る神社であると理解されます。真木定観や真木氏(槇氏)の関連は非常に錯綜しており、またその追求は本論考とは関係ないので省きます。

解説板には渡津宿から金山彦大神を遷座させたとあります。この渡津とはどこでしょう?調べたところ、旧小坂井町の古代の地名が渡津でした。また渡津の地名は読んで字のごとく、海を渡る場所すなわち渡し場と言う意味です。

徐氏古座侍郎や菟上足尼命が上陸した柏木濱一帯はかつて志香須賀の渡しと呼ばれていました。渡津宿とは志香須賀の渡しの背後に広がる集落、つまり旧小坂井町平井一帯を指すものと思われます。かつてここに金山彦大神が祀られていたのでしょうか?

調べた範囲内では、平井に金山彦大神が祀られていた痕跡を示すものはなさそうです。ただ、古座侍郎との繋がりは、かなり薄いものの、ありそうな気配となってきました。そうした気配を「牛窪記」は察して、「金山権現ハ牛窪ノ鬼門ニアリ。是モ秦氏ノ祖神肥前金立山権現ノ同社也。」との文言を挿入したものと思われます。

その場合、熊野権現が徐福だったはずなのに、今度は金山権現が徐福になってしまいます。「牛窪記」には、「徐林ハ肥前金立山ニ住シ」とあるので、徐福の子である徐林を金山権現にあてると言う手もありますが、それでもかなり無理があるのではと思われます。いずれにしても、「牛窪記」の金山大権現(現在の中條神社)と肥前金立山権現を同社とする考え方には十分な説得力がありません。

残念ながら金山権現(=徐福)の考察は中途半端に終わってしまいました。将来、金山権現が徐福であり金立山権現と同社であることを確定させる史料や論理が出現するかもしれません。その可能性に期待したいと思います。

             東三河の秦氏 その29 徐福伝承の謎に続く
スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
06 | 2013/07 | 08
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる