FC2ブログ

東三河の秦氏 その29 徐福伝承の謎


前回は「金山権現ハ牛窪ノ鬼門ニアリ。是モ秦氏ノ祖神肥前金立山権現ノ同社也。」の記述を基に、肥前金立山権現と金山権現の繋がりを検討しました。様々な角度から考えたものの、残念ながら消化不良に終わったようです。

今回は気を取り直し、「徐林ハ肥前金立山ニ住シ」(徐林は佐賀県の金立山に住み)の部分を検討していきます。どうして「牛窪記」の著者が肥前の徐福伝承を知っていたのか不思議ですが、当時既に、この地の徐福伝承が全国的な広がりを見せていたのでしょう。

さて徐林は金立山と言う山に住んだとのことです。だとすれば、当然神社などに痕跡があるはずです。調べてみるとこの山には金立神社が鎮座しており、奥の院、上宮、中宮、外宮などがありました。

一帯の状況は以下を参照ください。数多くの徐福関連伝承地があります。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/saga/sagasi/kinryu_shimomiya/kinryu_shimomiya_jyofuku.html

金立神社上宮(標高501メートルの金立山に鎮座)の祭神は保食(うけもち)神、罔象売女(みずはめ)命、徐福(金立権現)となっています。徐福は秦の始皇帝の命により海路来日。有明海に入り、寺井津(佐賀郡諸富町)に到着します。寺井の搦(からめ)集落には浮盃(ぶはい)という地名があり、徐福が上陸地点を求めて杯を浮かべ、それが漂着した所とされます。徐福は金立山に分け入り、弁財天の加護で不老不死の薬草を手に入れるのですが、この地に留まり一生を終えたとされます。

「牛窪記」では徐林だったのに、肥前の伝承では徐福となっています。「牛窪記」の著者が肥前の徐福伝承を知っているなら当然徐福とすべきでした。なぜ徐林に変えてしまったのか理解し難いものがあります。

佐賀県の徐福伝承は以下の佐賀県観光連盟ホームページを参照ください。
http://www.asobo-saga.jp/modules/auth/index.php/search_details.php?n=17

浮盃の由来に関しては「肥陽古跡記」(1665年)に以下の記述があります。

「佐嘉郡金立雲上寺ハ孝霊天皇七十二年(紀元前219年)秦始皇第三皇子徐福太子垂迹シテ三社権現ト顕レ給フ。権現来朝之時金銀珠玉之錺(かざり)乗船童男童女七百人歌舞音楽 ヲ調ベ肥前國寺井津ニ御着船有リ浦人障ヲ奉リテ饗スルニ太子喜ンデ盃ヲ浮ベテ興サセ給フ其跡一ノ島トナル今ノ浮盃津是ナリ」


何と、徐福は始皇第三皇子徐福太子になってしまいました。秦氏が始皇帝と徐福の子孫とする根拠になりそうな雰囲気です。実際には、徐福は垂迹(生れ変って仮にこの世に出現)して、三社権現として顕れたと書かれているので、こちらも熊野系の影響が見て取れます。但し、佐賀県は熊野から遠いので熊野系の影響は東三河ほど顕著ではありません。

浮盃地区の古賀家に伝わる古絹地の徐福上陸絵図には、有明海に停泊中の大型の船と、上部に金立山一帯が描かれているそうです。絵図や各ホームページが示すように、肥前の寺井津から金立山にかけての一帯には、徐福に関する伝承がかなり濃厚に存在しています。機会があれば一度訪問してみたいですね。

佐嘉郡で気になるのが「風土記逸文」肥前国の与止姫の項です。ここには欽明天皇25年(564年)に与止姫が鎮座されたとあります。一名は豊姫。この姫の名は邪馬台国の臺与(とよ )が反映されているのではないでしょうか?卑弥呼が死去し、再び倭国が乱れて卑弥呼の宗女臺与が女王となります。豊姫とは秦氏の姫を意味しているようにも思えてきます……。

徐福伝承を持ち運んだのは何度も書いていますが、秦氏です。それは他の主要徐福伝承地からも窺えます。例を挙げましょう。

佐賀県伊万里市波多津町は徐福が日本に最初に着いた所とされています。波多津は明らかに秦津ですね。鹿児島県串木野市照島秦波止は徐福が市内の照島海岸に上陸した場所です。徐福の一行は暴風雨にあい、土佐の宇佐に漂着して、高知県須崎市佐川町虚空蔵山に登ったとされます。虚空蔵信仰は秦氏の信仰です。三重県熊野市波田須(秦住)矢賀の里は徐福の上陸地とされ、徐福祠と徐福の墓があります。既に検討済みの富士山麓、旧藤野町、秦野市から藤沢市に関してもほぼ同様でした。

上記から明らかなように、九州から四国、紀州へと秦氏と共に徐福伝承が移動し、続いて秦氏の存在が認められる東三河から富士山麓、相模川沿いの旧藤野町、秦野市、藤沢市へと繋がっているのです。全体の流れがほぼ切れ目なく続いていると理解されますね。と言うところで第2部も無事(かどうかは不明ですが)終了です。

当初の推定である徐福伝承の三層構造も確認され、東三河における秦氏と徐福伝承研究の踏み台程度にはなったと思っています。もちろん、参照史料が不十分で聞き取り調査もほとんどできていないため、突込みどころや不完全な部分は多々あります。さらに調査を深めれば新たな発見もあると思いますので、これを機に多くの方が検討を進められることを期待しています。

今後の予定としては、東三河における養蚕と機織りを第3部、持統上皇東三河行幸の謎を第4部として書き続けたいと思っています。養蚕と機織りをきちんと纏めないと持統上皇東三河行幸の謎に入れないので、このような順番となります。問題は訪問すべき場所、調査すべき事項が多すぎることです。

現状ではいつ始められるかわからないのですが、今年の夏場は特に暑いし蚊も多いので、涼しくなってから各所を訪問するとして、年内には書き終えたいと思っています。まあ、それより早く断続的に書く可能性もありますが…。それまでは、溜っている過去写真の記事を書くことにします。

               東三河の秦氏 その30に続く
スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
06 | 2013/07 | 08
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる