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東三河の秦氏 その49 持統上皇東三河行幸の謎


今回からシリーズ第4部・「持統上皇東三河行幸の謎」が始まります。第1部から第3部までを振り返ると、死と再生を司る一族秦氏、不老不死薬を日本に求めた徐福一族、死と再生の象徴である養蚕と機織りなど、いずれのテーマにも死と再生が暗号のように隠されていました。それぞれのテーマが有機的に絡み合い、共鳴し合いながら持統上皇東三河行幸の謎へとなだれ込んでいく。「東三河の秦氏」を通して見れば、そんな展開になりそうな気がします。

なので、持統上皇東三河行幸の謎を書き始める前に、ストーリーの底流にある死と再生を大まかに見て行きましょう。

「養蚕と機織り」で詳しく書きましたが、天照大神の岩戸隠れは太陽(太陽神)の死と再生が主要なテーマであり、機織りがその媒介となっています。皇位継承に伴う一連の儀式が践祚大嘗祭で、儀礼の内容は天皇霊の更新(死と再生)であり、大嘗祭が旧暦の冬至の頃に執り行なわれるのも太陽(太陽神)の死と再生を意味しています。この大嘗祭に使われる神服は、三河国服部郷の神服部が作る調糸(赤引の糸)を用いて、三河国の工人が織り作ります。

伊勢神宮の神衣祭においても、三河国服部郷で産する赤引の糸を使って神衣が織られます。蚕と機織りもご存知のように死と再生の象徴です。死と再生を司る秦氏は、養蚕と機織りを職掌の一つとしており、東三河には彼らの存在が認められます。伊勢と東三河は運命の赤い糸(赤引の糸)と中央構造線で結ばれています。死と再生を象徴する水銀の原料辰砂は中央構造線に沿った地域に分布し、旧伊勢国飯高郡丹生郷(現三重県多気郡勢和村)などから多く産出されました。

伊勢神宮の創建と天照大神の創造には持統天皇の関与が窺われ、死と再生を意味するともされる式年遷宮の第1回目は持統天皇の4年(690年)に実施されました。持統天皇は自らを天照大神に擬した人物でもあります。

以上から、天照大神、天皇家(朝廷)、伊勢神宮、東三河、秦氏、養蚕と機織りなどの深層には死と再生があると理解されます。しかも、それぞれが密接不可分に絡み合っているのです。

これらを背景として持統上皇が死の直前に東三河行幸を決行したとすれば、その深層部にも死と再生があるはずです。でも、秦氏はどう持統天皇に関連してくるのでしょう?持統天皇は自らを天照大神に擬していました。そこにヒントがありそうなので、少し考えてみます。(注:場面によって持統天皇と持統上皇を使い分けています)

死んだ巫女アマテラスは天の石屋戸から出て太陽神・天照大神に変身・再生するのですが、巫女アマテラスには邪馬台国の女王である卑弥呼の姿が投影されていると考えられます。大和岩雄氏は「天照大神と前方後円墳の謎」(六興出版)で、「天照大神と書かれていても、天岩窟に入る前は日妻(日の神を祀る巫女)であり、天岩窟から出た後は日神である」と書いています。

天照大神の別名である大日孁貴(おおひるめむち)が巫女アマテラスに当たり、「ひるめ」は日女で日の神に奉仕する巫女を意味し、卑弥呼は日巫女となることから、巫女アマテラスには卑弥呼の姿が投影されていると考えられるのです。そして死と再生を司る一族が秦氏でした。では、天照大神と秦氏の関係を幾つか拾い上げます。

卑弥呼が支配した邪馬台国に関して、安藤輝国氏は「邪馬台国は秦族に征服された」と言う題名の本を著しており、秦氏と天照大神の関係が浮上してきます。

中野幡能氏は豊前国(秦王国)の下毛郡と上毛郡の一帯に山国があり、その北方に豊国がありこの二つの国が合体して山豊国ができ、それが邪馬台国だとしています。

東洋大学の市村其三郎博士は、宇佐八幡の社殿のある菱形山(亀山)は古墳であって、そこには邪馬台国の卑弥呼が眠っていると説いています。

3氏の説はいずれも高木彬光氏の著作「古代天皇の秘密」(角川文庫)に書かれている内容で、その正否を検討するには相当な枚数が必要となるため困難です。けれども、上記から秦氏と天照大神が密着した関係にあるのはほぼ間違いなく、そうした地下水脈が秦氏と持統天皇を結び付けていると考えられます。(注:邪馬台国の時代と秦氏の渡来時期(応神天皇期)は食い違いがあります。ただ、市村其三郎博士は卑弥呼=神功皇后としており、それが正しいと仮定すればほぼ同時期となります。天照大神は卑弥呼、神功皇后、持統天皇を複合した神格とも言えそうです)

死と再生を司る秦氏のエリア(豊前国)に卑弥呼(巫女アマテラス)が存在し、卑弥呼は宇佐神宮の社殿のある菱形山に眠っています。「東三河の秦氏 その10」で詳しく書いたように、菱形は死と再生の象徴であり、秦氏の拠点である日色野町にも菱形の地名が存在し、天照皇大神宮の石柱が建ち、東三河は持統上皇が行幸した地でした。宇佐は菟(うさぎ)であり、菟足神社には秦氏の関与が見られます。と言う具合に並べれば、宇佐と東三河の間には相通じる何かがありそうに思えてきます。

以上の状況証拠を勘案すると、持統上皇が東三河に行幸した目的も明確となります。上皇は岩戸隠れ神話に見られる死と再生を心的に追体験し、現実世界において儀式の形で具現化するため東三河(秦氏が存在する菱形の地=日色野町)に赴いたのです。

最初からやや強引に結論めいたものを書いてしまいました。今後どうストーリーを繋げられるか、少し心配になってきます。

(注:記事のサブタイトルは本来なら「持統上皇三河国行幸の謎」とすべきですが、東三河をシリーズの中心に据えていることもあり、「持統上皇東三河行幸の謎」としました)

              東三河の秦氏 その50 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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