FC2ブログ

東三河の秦氏 その50 持統上皇東三河行幸の謎


前回で結論めいたものを書きましたが、これはあくまで大雑把な概論に過ぎません。内容を確かなものとするためには、より詳細な論証が必要となってきます。ただ、十分な歴史史料があるとは思えず、推論の積み重ねにより持統上皇東三河行幸の謎に迫っていくしかなさそうです。では、急がず慌てず書き進めましょう。

第3部にて東三河が養蚕と機織り(共に死と再生の象徴)を介し、朝廷と伊勢神宮に深く関与している事実が浮き彫りになりました。一方、伊勢神宮の創建と皇祖神・天照大神の創造には持統天皇の関与が窺われ、持統天皇は言うまでもなく朝廷のトップに立つ人物です。

持統天皇と朝廷と伊勢神宮。東三河と朝廷と伊勢神宮。これを式と考えれば、「持統天皇と東三河」になり、自らを天照大神に擬した持統天皇と東三河は強い絆で結ばれていると推測されます。その推測を裏付けるかのように、持統上皇は死の直前の大宝2年(702年)、三河国に行幸しているのです。(注:三河国の行幸は持統が皇位を軽皇子「=文武天皇」に譲った後に実施されているので、天皇ではなく上皇)

と言うことで、まずは持統上皇東三河行幸に関する諸説を見ていきます。

謎とされる東三河行幸については、東国の反朝廷勢力を制圧するためとか、朝廷にとって障害となる神を誅するためとか、壬申の乱の論功行賞を行ったとか、瀬織津姫を封印するためだとか、三河で殺戮した人々の鎮魂のためだとか、「信濃国の秦氏」で書いた天武天皇の信濃遷都計画地訪問とか、幾つかの見解が示されています。

軍事行動説の主な根拠となるのは、行幸関連記事に騎士の調を免除とある点です。でも、兵士が同行しているからと言って軍事行動になるのでしょうか?上皇が行幸に出る以上、護衛の兵士が同行するのは至極当然のことです。例えば、軍事行動とは思えない持統天皇の6年(692年)における伊勢行幸で、天皇は近江・美濃・尾張・三河・遠江など供奉した騎士の当年の調役を免除しています。

さらに、死期が迫った持統上皇に兵の采配などできるとは思えません。仮に兵の采配をしたとしても、負けるのは目に見えています。敗残の兵を率いて、三河国に続き尾張、美濃、伊勢、伊賀などを悠長に回り叙位・賜禄などするはずがないし、勝ったとしても事後処理のため4国の行幸を取り止め直ちに藤原京に帰るはずです。

また東三河が敵地なら事前に行宮を建てさせるなど不可能であり、建てたとしても敵方に上皇の意図を知られ戦の準備期間を与えることになってしまいます。よって軍事侵攻のため、敵地に前もって行宮を建てるなどあり得ないと言えるでしょう。

そもそも上皇の行在所(行宮と同じ)跡は、戦争拠点とするにはおよそふさわしくない場所にあります。(注:行在所跡に関しては後の回で詳しく書きます)以上から、東三河行幸が軍事行動とする説は全く当たらないと考えられます。

いずれにしても、各説に関して細かく検討していたらそれだけで長くなってしまうので、取り敢えずごく一般的な視点から見ていきます。

人間の行動には一定のパターン・傾向があり、過去の行動の癖や傾向を知ることで、ある種の法則性が浮かび上がり、解明されていない行動に関して答えを導き出せる可能性があります。

言い換えれば、持統上皇東三河行幸の謎を解明するためには、上皇のそれ以前の行幸がどんなものであったのか、そこからどんな法則性が抽出できるのかを見て行く必要があるのです。持統天皇の行幸で特筆されるのは、在位期間中吉野に31回も行幸していることです。滞在したのは吉野町宮滝で、この地には吉野宮があったとされています。


大きな地図で見る
吉野町宮滝を示すグーグル地図画像。

吉野宮に関しては以下を参照ください。非常に詳しく出ています。
http://inoues.net/club5/miyataki_museum.html

持統は吉野以外にも何カ所か行幸しています。持統6年(692年)の伊勢行幸。大宝元年(701年)の紀伊行幸。そして死の直前となる大宝2年(702年)の東三河行幸です。紀伊行幸は武漏の湯での湯治が目的となるので(もちろんこの行幸にも様々な議論があります)、検討対象から省きます。

まず吉野行幸ですが、都から近いとは言え多額の費用や労力を要するはずで、それを在位中に31回も続けたとは国家財政をも圧迫する異常行動としか考えられません。伊勢行幸においては、農事の妨げになるとして強硬に反対した三輪高市麻呂の諫言を押し切って決行しています。東三河行幸は死の直前に実施しています。三河国に向けて出発したのが10月10日で、11月25日に還幸し、12月13日には重体となり、同月22日に崩御されているのです。

上記から何が抽出できるでしょうか?この3カ所の行幸に関しては、いずれも無理を押して決行していることが共通点として挙げられます。彼女はどうしてもこの3カ所に行かねばならなかったのです。

無理に無理を重ねた行幸の背後には、一体何があるのでしょう?この三つの行幸にはもう一つの共通点があります。その目的地全てが中央構造線に沿った場所であることです。

中央構造線は紀伊半島を横切るような形で続いています。半島の西側から見ると、紀ノ川から紀ノ川上流となる吉野川の北側を通り、奈良県の五条から東吉野へと続き、三重県境の高見峠を抜けていきます。高見峠から三重県に入り櫛田川に沿って東に進み、粥見を経由して伊勢神宮内宮、外宮の間を通り抜け、二見浦の北方で伊勢湾に入るのです。伊勢湾での中央構造線詳細は記事カテゴリ「パワースポット探訪記 その6 伊勢神宮」を参照ください。

008_convert_20131107081321.jpg
空海の高野山に向かう辺りで撮影した紀ノ川です。

死と再生の象徴である水銀の原料・辰砂を丹生と言います。空海は水銀を狙って高野山を開いたとの説もあり、それを証明するかのように紀ノ川には丹生川が流れ込み、周辺には丹生都比売神社や丹生神社が鎮座しています。同様に吉野周辺にも丹生川があり丹生川上神社、丹生川上神社下社などが鎮座しています。中央構造線と死と再生の関係が読み取れますね。


大きな地図で見る
紀ノ川流域を俯瞰すると、いかにも中央構造線と言う雰囲気があります。

伊勢湾を抜けた中央構造線は渥美半島に沿って走り、豊川市に上陸。豊川から天竜川に沿いつつ諏訪湖へと続いています。中央構造線に関しては以下のホームページがわかりやすく解説していますので参照ください。
http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/subindex03.htm

持統天皇が頻繁に行幸した吉野宮は吉野町宮滝にあって、すぐ近くを中央構造線が通っています。宮滝遺跡からは縄文時代、弥生時代、持統天皇の時代に至るまでの遺物が出土しており、遠い古代からの聖地であったと理解されます。

           東三河の秦氏 その51 持統上皇東三河行幸の謎に続く
スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2013/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる