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東三河の秦氏 その51 持統上皇東三河行幸の謎


前回の吉野行幸に続き、今回は持統6年(692年)の伊勢行幸から検討します。持統天皇の伊勢行幸に随行した石上麻呂は以下の歌を残しています。(注:史料不足を埋めるため今後も万葉歌を幾つか参照します)

我妹子をいざ見の山の高みかも大和の見えぬ国遠みかも(巻一・44)
私のいとしい妻を「いざ見よう」としても、そのいざ見の山が高すぎるのだろうか大和は見えない 国が遠すぎるのかもしれないな

ここに歌われた「いざ見の山」は高見山とされていますので、持統天皇は中央構造線に沿って吉野から東に進み、伊勢に入ったと理解されます。


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高見山の位置を示すグーグル地図画像。

天皇が伊勢を行幸した際、都に残った柿本人麻呂は以下の歌を詠んでいます。彼を残したまま天皇に随行した女官を想って詠んだそうですが…。

嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか(巻一・40)
あみの浦で舟遊びに興じている乙女たちの裳の裾を、満ちた潮が濡らしているのだろうか

釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(巻一・41)
腕輪を付ける答志の崎に、今日も大宮人たちは玉藻を刈っているのだろうか

潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を(巻一・42)
潮騒の中で伊良虞の島辺を漕ぐ舟に、私の彼女は乗っているのだろうか あの荒々しい島廻りを

一番目の歌にある「嗚呼見の浦」とは、鳥羽市小浜海岸とされます。二番目の「答志の崎」は、鳥羽市答志島にある岬です。三番目の歌の「伊良虞」は渥美半島突端の伊良湖岬或いは伊良湖岬に近い鳥羽市の神島とされています。船で伊勢から次第に遠ざかって行く様子がこの連作から見て取れますね。

三番目の歌は、酔石亭主は伊良湖岬だと理解します。つまり持統天皇は、伊勢行幸の際に渥美半島に上陸したのです。伊良湖岬は伊勢国に含まれ、その名所とされていることからも、持統天皇の伊勢行幸に渥美半島先端部が含まれていると考えて違和感はありません。と言うことで、持統天皇が渥美半島にいたことを示す伝説がないか調べてみましょう。

「堀切校区まちづくり推進計画」を読んだところ、「小塩津は、小塩津史によると『持統6年(692年)持統天皇が当地に行幸の際、この地を灘崎と呼び、磯岩が沖合いはるかに湾曲して入江となり、波も静かで風向もよく、伊勢地に渡る唯一のよき港町で戸数も300以上を数えたとある。日吉神社建立のとき村の名前も越津と改められたが、828 年の大地震で越津の海岸は大陥没し、美しい磯岩や家並みも半分ほど海に沈んだため、住民は北へ逃れ移り住み、今の地名(小塩津)に変えたと伝えられている。」と書かれていました。「堀切校区まちづくり推進計画」に関しては以下を参照ください。
http://www.city.tahara.aichi.jp/section/somu/pdf/community/horikiri.pdf


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小塩津の位置を示すグーグル地図画像。

小塩津を含む渥美半島先端部一帯は和太郷とされますが、字音の類似などからここが幡太郷との説(酔石亭主は違うと思います)もあります。幡太郷かどうかは別として、畠神社や秦氏的地名の存在などから秦氏との関係は推定されます。

「小塩津史」に書かれた内容は、伊勢行幸において持統天皇が渥美半島に上陸したことの裏付けになりそうです。なお、田原市の「東三河津波歴史調査研究業務報告」には、「大宝二年持統上皇がこの地方を御巡幸の砌りこの海岸の眺が大変お気に召したとも伝えられ、」との記述があります。「小塩津史」の持統6年(692年)と「東三河津波歴史調査研究業務報告」の大宝2年(702年)では記述が矛盾しているように見えますが、これは両方とも正しいと解釈されます。

日本史学者の太田亮氏は「神社を中心としたる宝飯郡史」において、持統天皇の三河行幸は2回の可能性があると指摘しています。一回目が持統6年(692年)の伊勢行幸で、この際に渥美半島に上陸した、二回目が大宝2年(702年)の東三河行幸でこの時も渥美半島に上陸したとすれば矛盾はなくなるのです。いずれにせよ「小塩津史」の記述と太田亮氏見解は、持統天皇が伊勢行幸の折に、伊勢から海路で渥美半島に上陸したことを示していると言っていいでしょう。

なお、828年に三河地方における地震の記録はありません。多分、平安時代の878年に起きた仁和地震(にんなじしん、南海トラフ沿いの巨大地震)を828年に転記ミスしたものと思われます。

以上を整理すると、伊勢行幸で持統天皇は、大和の藤原京から南下、吉野川に出て、高見山の高見峠を越え伊勢に入り、伊勢から答志島、神島を経て渥美半島先端の伊良湖岬近くに上陸したとなります。何のことはありません。持統天皇の伊勢行幸は正しく中央構造線の旅だったのです。

そして渥美半島の田原市には倭姫命の元伊勢である渥美宮があり、この地は伊勢神宮の神領・渥美神戸でした。倭姫命の三河における元伊勢(渥美宮と浜名宮)には、持統上皇の東三河行幸が反映されている可能性があります。

だとしたら、持統上皇は渥美神戸のある渥美宮だけでなく浜名宮(「養蚕と機織り」で書いた濱名惣社神明宮が鎮座する浜名神戸の地)にも行幸していたのではないでしょうか?これらの問題は追って詳しく検討してみます。

持統天皇はなぜこれほどまでに中央構造線にこだわったのでしょう?中央構造線は西南日本の内帯と外帯とを分ける巨大断層です。これは日本レベルですが、世界レベルではアフリカ大地溝帯があります。この巨大地溝帯はアフリカ大陸の東部を南北に走る世界最長の断層陥没帯です。

アフリカ大地溝帯は人類進化に係わり、その核心部分には死と再生がありました。詳しくは記事カテゴリ「人類進化の謎を解く」から「秦氏の謎を解く」を参照ください。これらのシリーズは一貫して死と再生について書いており、死と再生を司る一族が秦氏です。そして、死と再生を象徴する水銀の産出地は中央構造線に沿って分布しています。よって日本版の中央構造線も死と再生に係わっていると考えられるのです。

「古事記」によれば、アマテラスが忌服屋(いみはたや)において衣を織っているとき、弟のスサノオが馬の皮を剥いで投げ落としたので、天の服織女(はたおりめ、急に機織りの女に変わっていますが、文脈から見て天の服織女=アマテラス)は驚いて死んだとあります。死んだアマテラスは天の石屋戸(横穴墳墓)に入り、高天ヶ原は闇に包まれました。そこで神々が協議し、アマテラスが石屋戸から出ると高天ヶ原は再び光を取り戻します。

「日本書紀」でもほぼ同じで、ワカヒルメ(=オオヒルメ)すなわち神に仕える巫女が死に、天の石屋戸に入って後、太陽神アマテラスとして再生しています。ヒルメは日女とも書き、これは太陽神を祀る巫女を意味するので、卑弥呼(=日巫女)のイメージにも重なってきます。記紀における岩戸隠れ神話は太陽の死と再生を象徴したものであり、巫女が太陽神に変容する様が描かれているのです。ここは、天照大神にとって最も重要な場面と理解できますね。

自らを天照大神に擬したいと願う持統天皇にとって最も重要なのは、天照大神の死と再生でした。(注:生前の事績に基づく諡号が高天原広野姫天皇であることからも、自らを天照大神に擬したい意向が窺えます)それを心的に追体験し現実の世界において具現化するためには、どうしても中央構造線の旅を決行せざるを得なかったのです。(注:もちろん別の目的もあったと思われ、後の回で検討していきます)

伊勢と東三河を繋ぐ中央構造線の死と再生。天照大神の死と再生。自らを天照大神に擬した持統天皇。死と再生を司る秦氏。死と再生の象徴である養蚕と機織り。これらをリンクさせることで、持統上皇東三河行幸の謎も氷解するのではないでしょうか?

今回まで持統上皇東三河行幸の謎を俯瞰的に見てきました。よって内容も、上皇の行幸に関連する心的な構造にほぼ的を絞っています。次回からは行幸スケジュールなど具体的な検討に入る予定です。

             東三河の秦氏 その52 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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