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東三河の秦氏 その52 持統上皇東三河行幸の謎


一般的に、持統上皇の東三河行幸が謎とされるのは、約一カ月に及ぶ同地滞在について、歴史史料に何も書かれていないことによります。この点は後でじっくり考えるとして、まずは持統上皇の東三河行幸に関する「続日本紀」の記述から検討を進めます。具体的な内容は大宝2年(702年)文武天皇の条に書かれており、関係すると思われる記述の概要は以下の通り。

9月19日、遣使於伊賀。伊勢。美濃。尾張。三河五国。営造行宮。(使を伊勢・伊賀・美濃・尾張・参河の五国に派遣して、行宮を営造させた)
10月3日、鎮祭諸神。為将幸参河国也。(諸神を鎮め祭った。参河国に行幸する為である)
10月10日、太上天皇幸参河国。令諸国無出今年田租。太上天皇=持統上皇が、参河の国に行幸された。諸国は、今年の田租を免除された)
11月13日、行至尾張国。尾治連若子麻呂。牛麻呂。賜姓宿禰。国守従五位下多治比真人水守封一十戸。(一行は、尾張国に至った。尾張連若子麻呂と牛麻呂は宿禰の姓を賜った。国司の守で従五位下の多治比真人水守に封十戸を与えた)
11月17日、行至美濃国。授不破郡大領宮勝木実外従五位下。国守従五位上石河朝臣子老封一十戸。(一行は美濃国に至った。以下略)
11月22日、行至伊勢国。国守従五位上佐伯宿禰石湯賜封一十戸。(一行は伊勢国に至った。以下略)
11月24日、至伊賀国。行所経過尾張。美濃。伊勢。伊賀等国郡司及百姓。叙位賜禄各有差。(一行は伊賀国に至った。行幸の経路に当たる尾張・美濃・伊勢・伊賀国などの郡司、百姓に、位階や禄を身分に従って賜った)

11月25日、車駕至自参河。免従駕騎士調。(車駕=持統上皇が参河より(藤原京に)還幸された。行幸に従った騎士は税を免除された)
12月13日、太上天皇不予。(持統上皇が重体になった)
12月22日、太上天皇崩(持統上皇が死去した)

上記の如く9月19日、10月3日、10月10日、11月25日の全ての記述に三河国が出ており、その内容からも行幸の主な目的地が三河国であるのは明らかです。10月10日、持統上皇は三河国行幸に出発しています。(注:10月10日が三河への出発か三河到着か議論はありますが、過去の行幸記事から判断して出発になると思われます)なのに、最重要な地である三河国にいつ到着したのか記載はありません。

さらに、三河国滞在中の動静も一切書かれておらず、藤原京を出発した10月10日の次には、11月13日の尾張国に至ると言う記事に飛んでしまっています。藤原京から三河国、三河国から尾張国への各移動日数を差し引いても、20日間程度は主要な目的地である三河国にいたはずなのに、滞在中の動静は書かれず、逆にあまり重要とは思えない尾張など四国での動静は書かれています。

行幸のメインとなるべき三河国への到着日と動静についての記載が欠け、付け足し的な四国行幸の到着日・動静はきちんと書かれている。明らかに主従が逆転した内容となっており、極めて不可解なものがあります。持統上皇の東三河行幸が謎とされるのは正にこの部分で、その背後には何か表沙汰にできない重大な秘密があるとしか考えられません。(注:上記では20日間程度と書いていますが、実際には異なります。詳細はこの回を読み進むと出てきます)

どうこの謎を解くのか、「続日本紀」の記述をただ眺めていても始まらないので、早速内容の分析に入りましょう。

さて、行幸関連記事を青と赤に分けています。理由は読んでみて辻褄が合わない点があるからです。9月19日に五国に行宮を営造させているのに、10月3日では、諸神鎮祭は三河国に行幸しようとしているからだ、とあります。残る四国はどうなったのでしょう?

そして10月10日には持統上皇が三河国に行幸しています。一般的に考えれば、9月19日の記述のように伊勢から順番に行幸して(注:藤原京よりの行路からすれば伊賀、伊勢の順となります)最後に三河国に行くはずと思われます。

しかしそうはなっておらず、9月19日と、10月3日/10月10日の記事は辻褄が合いません。(注:行きは海路、帰りは陸路との見方もありますが、それは別途検討します)ただし、10月10日に「諸国は、今年の田租を免除された」とあり、この部分だけを抜き出すと諸国とは五国を意味していると思われます。けれども、前半部分は三河国に行幸とあり、後半部分が諸国は今年の田租を免除された、では前後の辻褄も合いません。文章で書くとややこしいのですが、以下のように整理し直せば実はとても簡単です。

9月19日、遣使於伊賀。伊勢。美濃。尾張。三河五国。営造行宮。(使を伊勢・伊賀・美濃・尾張・参河の五国に遣して、行宮を営造させた)
10月3日、鎮祭諸神。為将幸参河国也。(諸神を鎮め祭った。参河国に行幸する為である)
10月10日、太上天皇幸参河国。(太上天皇=持統上皇が、参河の国に行幸された)

10月10日、令諸国無出今年田租。(諸国は今年の田租を免除された)

つまり9月19日の五国に行宮を営造させたと言う記事は、10月10日の諸国は今年の田租を免除されたと言う部分にのみ続き、10月3日の記事は10月10日の参河国行幸部分のみに続いている別個の記事なのです。赤字と青字に分けて整理し直すと、それが良く見えてきますね。

次が一カ月以上飛んで11月13日から11月24日まで尾張国など四つの国を行幸します。これは9月19日と10月10日の「令諸国無出今年田租」に続く記述となります。よって11月13日から11月24日までは青字部分となるのです。

11月25日には「車駕至自参河」(持統上皇は三河より(藤原京に)至った)とあります。
これは10月10日「太上天皇幸参河国」に続いている記述なので赤字となります。

仮に上皇が11月24日に伊賀国に至り叙位・賜禄をした上で、11月25日に藤原京に還幸したとするなら、「車駕至自伊賀」(持統上皇は伊賀より藤原京に至った)とすべきです。これも11月13日~24日と25日が全く整合していません。(注:尾張国から伊賀国まで何のイベントもなく、単に宿泊して通過しただけなら「車駕至自参河」であっても筋は通ります)

持統上皇が11月24日に伊賀国に至り11月25日に藤原京に還幸したとする場合、別の問題も浮上します。上皇は東三河行幸で自身が馬に乗ったのでしょうか?記述では車駕ですから、馬に乗ったのではありません。(注:車駕は天皇が乗る車或いは天子の尊称)車での一日の移動距離はどの程度でしょう?多分、どんなに頑張っても山道の多い伊賀から藤原京のルートでは20kmがせいぜいと思われます。還幸後すぐに重体となっていることからして、20kmでさえ無理かもしれません。

一方、伊賀国から(名張からとして)藤原京までは直線距離でも30km以上あり、実際の行路をその5割増しとしても45km程度になるので、これを一日で移動するのは困難と判断できます。24日に伊賀国に到着して、伊賀国の郡司や百姓に位を叙し禄を賜い、25日に藤原京に還幸するなどあり得ないのです。またわざわざ行宮を建てさせて一泊しただけとは理解に苦しみます。

以上、様々な観点から検討した結果、持統上皇東三河行幸の記事は赤字部分のみと判明しました。整理すれば以下の通り。

10月3日、鎮祭諸神。為将幸参河国也。(諸神を鎮め祭った。参河国に行幸する為である)
10月10日、太上天皇幸参河国。(太上天皇=持統上皇が、参河国に行幸された)
11月25日、車駕至自参河。免従駕騎士調。(車駕=持統上皇が参河より(藤原京に)還幸された。行幸に従った騎士は税を免除された)

赤字部分だけだと内容に何の矛盾もなく、上皇は三河国に行って帰っただけのことになり、実にすっきりします。さらに整理前段階で三河国滞在を20日間程度と書きましたが、整理した上で見れば、10月10日出発で11月25日帰着になり、移動期間を差し引いても一カ月程度は三河国にいたことになります。しかし一方で、青字部分はどうなるのかと言う問題が持ち上がります。一難去ってまた一難ですが、それほど難しい問題とは思えません。

当時、五国に行宮を営造させ、叙位や賜姓などを行える人物を思い浮かべてください。そう、上皇の孫に当たる文武天皇です。でも、青字部分が文武天皇の動静だとすると、藤原京に帰る記述が見当たらないという矛盾を抱えることになってしまいます。この問題は難しいので一旦棚上げにして、別途考えます。

           東三河の秦氏 その53 持統上皇東三河行幸の謎に続く

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