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東三河の秦氏 その53 持統上皇東三河行幸の謎


前回、持統上皇の行幸スケジュールを検討する中で、文武天皇まで登場してしまいました。そこで、大宝元年(701年)の紀伊行幸と同様に、持統上皇と文武天皇は二人で東三河行幸に出発したと仮定します。(注:同行か別々の行幸か現時点では不明なので、あくまで仮定の話です)その場合、二人はどこかで別れ、別行動を取ったことになります。では、持統上皇と文武天皇はどこで別れたのでしょう?取り敢えず、江戸時代の道路状況を参考にして推測してみます。

旧東海道は名古屋から岡崎を経て、豊川市御油に至ります。その先で東海道から本坂峠を越える姫街道(注:姫街道は通称で、実際には本坂道・本坂街道。現在は5号線と362号線)が分岐しています。本坂道は第3部の「養蚕と機織り」で書いたように、神御衣が運ばれたルートに当たり、古代には二見道と称されていました。ちなみに、現在の国道1号線と5号線の分岐点は追分となります。


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追分を示すグーグル地図画像。

江戸時代の分岐点はここではなく、行力交差点の西側の信号ない交差点です。では東海道と二見道の分岐点を見ていきます。

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分岐点の手前から撮影した旧東海道。

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旧東海道と本坂道の分岐を示す常夜燈と砥鹿神社道の石柱。

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もう一枚。

旧東海道の写真にある家の一部が見えています。ここが江戸時代における旧東海道と本坂道の分岐点(追分)とはっきりわかりますね。写真では見えにくいのですが、石柱の下部に姫街道と書かれた板が立て掛けてありました。

以上で江戸時代の分岐点は明確になったものの、古代における道の状況は違っているはずです。もちろん、違っていても参考にはなります。江戸時代の街道を参考にして考えれば、古代における古東海道と二見道の分岐点で上皇と天皇は別れたと推定されるのです。

それをどう証明するのかと疑問の声が上がりそうなので、以下の万葉歌を参照ください。持統上皇に同行した高市連黒人・羇旅(きりょ)の歌八首の一つ(巻三・276)です。(注:万葉集巻三高市連黒人・羇旅の歌八首のうち、270、271、272、276の4首及び巻一 57~61の5首は東三河行幸関連とされるので今後も参照します)

妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
あなたも私も一つだからでしょうか。三河の二見の道から別れることができません。

三河の二見の道ゆ別れなば我が背も我れもひとりかも行かむ (一本に云く、妻の返歌?)
三河の二見の道で別れたなら、夫も私も一人で旅することに致しましょう。

この歌は明らかに古東海道と二見道の分岐点で読まれたと考えられます。高市黒人は二見道の分岐点で別れ難いとうじうじしているのに、妻は道が別れているんだから、あなたも私も別々の道を一人行きましょう、ときっぱり答えています。なぜ二人は別れなければならなかったのか?

理由は行幸の列が文武天皇(高市黒人が持統上皇と別れて同行)と持統上皇(妻が同行)に分かれ、持統上皇が本坂峠を越えて遠江国の浜名神戸の地に向かい、文武天皇は尾張国に向かったから、となります。(注:浜名神戸に関しては「東三河の秦氏 その40 養蚕と機織り」に書いています)

なお、古代における二見道の分岐は南へ約2kmの御津町広石との説があります。ここまで江戸時代を参考にして古東海道と二見道の分岐点を検討してきましたが、酔石亭主は広石説を採用したいと考えます。理由は広石の方が持統上皇の行在所に近く、他にも様々な理由が考えられるからです。(注:分岐点が広石になる理由と持統上皇の行在所に関しては、後の回で書きます)


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御津町広石を示すグーグル地図画像。

話を行幸の日程・ルートに戻します。通説によると、持統上皇の行幸ルートは往路が伊勢湾と三河湾を船で渡る海路で、復路は11月13日の記述から判断して陸路になるとされています。けれども、「続日本紀」の記述を整理し直せば三河国へ行って三河国から帰ったとなり、往路、復路共に海路と考えるのが自然です。

また上皇は前年の大宝元年(701年)、紀伊国に行幸するため船を38艘も建造させています。三河国行幸もこの船を再利用したと考えられますが、往路のみ海路で船は空で戻し、復路は陸路と言うのも考えにくいと思われます。

持統上皇は往路、復路共に海路で東三河に行幸したとの前提で考えれば、「11月25日、車駕が参河より至った」の記事が矛盾のないものとなります。(注:復路が海路の場合でも伊勢国と伊賀国は経由せざるを得ませんが、既に書いたように単に通過しただけで特段のイベントがなければ車駕が参河より至ったと記載してもおかしくないと思われます)

通説によると持統上皇は藤原京から伊賀国、伊勢国を経て現在の松阪市辺りから船に乗って三河国に向かったとされます。(注:詳細は後の回で詳しく書きます)酔石亭主もこの経路が正しいと思います。ところがその場合、ある疑問が浮上します。持統上皇が往路で伊賀国、伊勢国を経由したなら、なぜその時点で叙位や賜禄を行わなかったのかという疑問です。

答えは簡単にわかりますね。伊賀国など四国の行幸と各国における叙位、賜禄、賜姓は文武天皇の手によるものだから、持統上皇が伊賀国、伊勢国の叙位や賜禄を行うことはなかったのです。また上記の点を考慮すると、文武天皇と持統上皇は別個に三河国に赴いた可能性が高くなります。

いずれにせよ、文武天皇と持統上皇は両者とも最終・最重要目的地である三河国に行ったはずなのに、現地での動静は一切書かれていないことになります。実に不可解ですが、そこにはどうあっても書けない事情・理由が存在していたのです。

          東三河の秦氏 その54 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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