FC2ブログ

東三河の秦氏 その55 持統上皇東三河行幸の謎


飯野高丘宮は持統上皇の出航地に近いと思われるので、より詳しく見ていきます。史料となるのは「倭姫命世記裏書」で、次のような記述がありました。

神服機殿。
倭姫命、飯野高丘宮に入坐して、機屋を作り、大神之御服を織らしめ、高宮よりして礒宮に入坐す。因て其地に社を立て名は服織社と曰ふ。麻続郷と号ふは、郡の北に神在り。此、大宮の神荒衣の衣を奉る、神麻績の氏人等、此村別て居。因て名と為也。
垂仁天皇二十二年春三月、飯野高丘宮に坐す。二十五年春三月、飯野高丘宮より、伊蘇宮に遷り座す。二十六年冬十月、天照太神・草薙剱、度会五十鈴川上に鎮座す、同じく斎宮を宇治県五十鈴川上大宮辺に興て、倭姫命に居らしむ。即ち八尋殿を立て大神御衣を織らしむ。宇治機殿と号ふは是也〔一名礒宮〕。磐余甕粟宮の三年、本の服織社に遷り、大神の御衣を織らしむ。難波長柄豊崎宮の御宇の丙午年、竹連・礒部直二氏、此郡を建つ。

古文に弱い酔石亭主にとってこの記述は難しすぎます。ただタイトルに「神服機殿」とあることから、神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)に関係していると推測されます。いずれにしても難しいので、Wikiを参照してみましょう。

Wikiの機殿神社には、「『倭姫命世記』では垂仁天皇25年(紀元前5年)、倭姫命が天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社で、…中略…和妙を織らせた。倭姫命は翌垂仁天皇26年(紀元前4年)、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。」と記載ありました。

「倭姫命世記裏書」とWikiはうまく整合しているように思えません。「倭姫命世記裏書」によると、「倭姫命は飯野高丘宮に入り、機屋を作って天照大神の御服を織らせ、その後高宮より礒宮に移った」とあります。礒宮は現在の磯神社(鎮座地:伊勢市磯町1069)に当たるとされています。磯神社詳細は玄松子さんの以下のホームページを参照ください。
http://www.genbu.net/data/ise/iso_title.htm

磯神社所在地はかなり伊勢神宮に近く、松阪市からは遠ざかります。「倭姫命世記裏書」では続いて、「よって、その地に社を立て名は服織社と言う」とあります。文面を読む限りでは、服織社は礒宮に建てたことになります。ところがそれに続いて「麻続郷と号ふは、郡の北に神在り。此、大宮の神荒衣の衣を奉る」とあります。

この辺は記述に混乱(或いは酔石亭主の理解不足)があり、「高宮よりして礒宮に入坐す」の部分が浮いているように感じられました。「郡の北に神が在り」もこれだけでは良くわかりません。仮に礒宮の北とすれば、海の中になってしまいます。

以上から、「よって、その地に社を立て名は服織社と言う」のその地とは、飯野高丘宮がある地、すなわち現在の松阪市になると考えられます。礒宮においてはWikiにあるように、一時的に服織の社が建てられたのでしょう。

以上を考慮して、うまく整合するように全体を見直します。松阪市山添町4に鎮座する神山神社を飯野高丘宮に比定して、その北(実際には北北東)に中麻績神社(現麻績神社、鎮座地は明和町大字中海)と神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ、鎮座地:松阪市井口中町)が鎮座しています。


大きな地図で見る
神山神社の位置を示すグーグル地図画像。

神麻続機殿神社は神荒衣を奉献する神社なので、「麻続郷と号ふは、郡の北に神在り。此、大宮の神荒衣の衣を奉る」は、これに間違いありません。

なお神麻続機殿神社は、元は神服織機殿神社と同じ場所にあったとのことです。「倭姫命世記裏書」にある神服機殿。すなわち機殿神社の詳細は以下のWikipedia記事を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE


大きな地図で見る
神服織機殿神社鎮座地を示すグーグル地図画像。

神服織機殿神社に関しては以下の玄松子さんホームページを参照ください。
http://www.genbu.net/data/ise/kanhatorihatadono_title.htm

実にややこしいのですが、「倭姫命世記裏書」の内容を大胆に整理すれば、「飯野高丘宮に入坐された倭姫命が神服織機殿神社にて大神の御服を織らしめ、神麻続機殿神社は神荒衣を奉献した」となるでしょう。礒宮はそれに別個の話をくっつけたものと考えます。これで全体が松阪市の狭い範囲内に収まりました。と言うことで、話を持統上皇の行幸に戻します。

上皇は藤原京から松阪市まで陸路の旅を続けてきました。松阪市の目の前には伊勢湾が広がっています。当然ここからは海路となるはずです。では、松阪市のどこから上皇は出航したのでしょう?以下の舎人娘子(とねりのおとめ)作となる万葉歌を参照ください。

二年壬寅、太上天皇、参河国に幸しし時の歌 (巻一・61)

大夫がさつ矢手挟み立ち向ひ射る円方は見るにさやけし

勇士がさつ矢を手に挟み持ち、立ち向かい、射抜く的――その円方の浜は、目にも鮮やかに美しい

内容は以下を参照しました。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/toneri_i.html

円方(まとかた)において従駕の騎士たちが弓を射る演武をしているのでしょうか?そんな凛々しく清々しい情景が目に浮かびます。多分彼らは、持統上皇や舎人娘子などお付きの女官が居並ぶ前で演武しているのでしょう。この歌に戦を前にしたような雰囲気はみじんも感じられません。逆に、舎人娘子がそこはかとない恋心をこの騎士に抱いているような雰囲気さえあります。

問題は円方が現在のどこになるかですが、松阪市東黒部町一帯(櫛田川と中野川に挟まれた地域の中野川寄り)とされています。この万葉歌に従えば、持統上皇は東三河に行幸する際、松阪市の円方辺りから船出したと想定されます。


大きな地図で見る
東黒部一帯を示すグーグル地図画像。

地図には記載ありませんが、西側の大きな川が櫛田川で東側の小さな川が中野川となります。(拡大すれば川の名前や東黒部町の町名も出てきます)地図画像を大きくして見ると、すぐ近くに神服織機殿神社が鎮座しています。

神服織機殿神社では、第3部「養蚕と機織り」で書いたように、当時大和国服部連傘下であったと推定される神服部氏が平安京に移住前、三河赤引の糸を用いて神御衣を織り、天照大神に奉献していました。

神服織機殿神社は式内社・服部麻刀方神社 (はとりのまとかたじんじゃ)の論社とされます。(注:論社とは、似たような名の神社が二つ以上あって、どれが『延喜式』に記されている神社か決定し難いもののこと)

「麻刀方」の(まとかた)は正しく万葉歌にある円方です。さらに「伊勢国風土記」には、「的形浦はこの浦の地形が的に似ている。それで名とした。」と書かれています。そして服部麻刀方神社は松阪市乙部町内にかつて鎮座していました。


大きな地図で見る
乙部町を示すグーグル地図画像。

乙部町のすぐ北が、円方とされる東黒部町と中野川です。服部麻刀方神社の手前には、当時、的に似た形の内浦が広がっていたのでしょう。つまり櫛田川と中野川に挟まれた陸地部分は、持統上皇の時代には内浦状態だったのです。

服部麻刀方神社 の正確な位置に関しては、持統上皇の行幸を追及された豊橋市在住のこんちゃん様のブログに取り上げられています。酔石亭主ではとても調べ切れない内容なので、こんちゃん様から事前にご承諾をいただきURLを掲載します。是非ご参照ください。
http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11131729090.html

神服織機殿神社と神麻続機殿神社がかつて同じ場所にあり、神服織機殿神社は服部麻刀方神社 の論社だとすれば、結局、神服織機殿神社と神麻続機殿神社は共に円方にあり、この地で倭姫命は天照大神の御服と神荒衣を織らせたことになります。そして持統上皇の出航地とされる場所も、舎人娘子の万葉歌から円方となります。

実にややこしかったのですが、倭姫命の元伊勢ストーリーが円方に収斂してきました。やはり持統上皇の出航地は円方と考えて間違いなさそうです。(注:倭姫命の元伊勢がなぜ持統上皇の出航地とされる円方にリンクするのか疑問もあるでしょうが、この点は次回で書く予定です)

             東三河の秦氏 その56 持統上皇東三河行幸の謎に続く
スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2013/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる