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東三河の秦氏 その57 持統上皇東三河行幸の謎


前々回で参照した「倭姫命世記」には以下の内容も書かれています。

二十六年[丁巳]冬十月[甲子]、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る。
倭姫命は、御送駅使安部武渟河別命、和珥彦国茸命、中臣国摩大鹿嶋命、物部十千根命、大伴武日命、度会大幡主命等に、夢の状を教へ知らせた。大幡主命は悦び、「神風の伊勢国、百船 度会県、さこくしろ宇治の五十鈴の河上に鎮り定まり坐す皇太神」と国寿き申し上げ、終夜ら宴楽舞歌し、日小宮の儀の如く祭った。…中略… 送駅使が朝廷に還り上り、倭姫命の夢の状を返事申上げると、天皇はこれを聞こし食して、大鹿嶋命を祭官に定め、大幡主命を神の国造兼大神主に定められた。


大幡主命は外宮の神官・度会氏の祖であり別名は大若子命です。雄略天皇の時代に天照大神が倭姫命に夢に現れ、「自分一人では不便で食事も安らかにできないので、 止由気皇大神(豊受大神)を呼び寄せてほしいと」言われ、倭姫命は大幡主命を遣わして止由気皇大神を祀ったとされ、これが外宮の起源となっています。この部分は「倭姫命世記」に記載あります。具体的には以下の通り。

豊宇気大神
泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇(=雄略天皇)即位二十一年[丁巳]冬十月、倭姫命、夢に教へ覚し給はく、「皇太神、吾一所耳坐さば、御饌も安く聞こし食さず、丹波国与佐の小見比治の魚井原に坐す道主の子八乎止女の斎奉る御饌都神止由居太神(みけつかみとゆけのおほかみ)を、我が坐す国に欲し」と、誨へ覚し給ひき。時に大若子命を差し使ひ、朝廷に参り上らしめて、御夢の状を申させ給ひき。即ち天皇勅して、「汝、大若子、使とて罷り往きて、布理奉れ」と宣ひき。


上記に関しては疑問もあります。倭姫命と大幡主命は垂仁天皇の時代の人物なので、雄略天皇の時代に二人がいるはずがないからです。一方、延暦23年(804年)に編纂された社伝『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇22年、天照大神が天皇の夢に現れたことになっており、こちらが正しそうです。

豊受大神に関してはWikipediaを参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%A6%E3%82%B1%E3%83%93%E3%83%A1

次に「伊勢国風土記逸文」を参照します。内容は以下の通り。

天照大神は美濃の国から廻って安濃の藤方の片樋の宮においでになった。 その時安佐賀山に荒ぶる神がいた。百人行けば五十人殺し、四十人行けば二十人を殺した。 これがため倭姫命は度会の郡の宇治の村の五十鈴の川上の宮に入り給わず、藤方の片樋の宮に奉斎した。 そのころ、荒ぶる神の所業を、倭姫命は中臣の大鹿島命と伊勢の大若子命と忌部の玉櫛命を遣わして天皇に申し上げさせた。 天皇が仰せられるには「その国は大若子命の先祖の天日別命が平定した国である。大若子命よ、お前がその神を祭り鎮めて倭姫命を五十鈴の宮にお入れ申し上げなさい」といって、すなわち種々さまざまな神への捧げ物を賜って返し遣わされた。 大若子命はその神を祭ってすっかり安全に鎮め、そこで社を安佐賀に建てて祭った。(大神宮儀式解)

大若子命の先祖である天日別命は神武天皇東征の際、伊勢津彦を追いやって伊勢国を平定した人物です。「倭姫命世記」では最初に「大若子命(一名大幡主命)」とあり、以降大若子命と大幡主命が混在して出てきます。大若子命は越国の征討の際に幡(旗)をかかげ戦ったことから、大幡主の名を賜ったとされます。

この大幡主命と言う名前がちょっと気になります。「富士山麓の秦氏」において大幡の飛行ルートが秦氏の移動ルートに重なり、大幡=秦氏になることを論証しました。同様に考えれば、大幡主命は秦氏系であるように思われるからです。倭姫命が持統上皇であれば、倭姫命と大幡主命の関係は持統上皇と秦氏の関係に置き換えられることになります。

けれども、大若子命の先祖が天日別命であることから判断すると、大幡主命が秦氏系とはとても言い切れません。これをどう考えればいいのでしょう?「倭姫命世記」には大幡主命と大若子命が混在しているので、両者は別人とも考えられます。つまり大幡主命は秦氏系で、大若子命は伊勢津彦を追いだして伊勢の支配者となった天日別命の子孫と考えるのです。そのように設定すれば、大幡主命は名前からしても秦氏系になるはずです。今まで見てきたように、他氏族の中に潜り込むのは秦氏の得意技なので、天日別命の系統に秦氏が潜り込んで可能性もあるでしょう。

以上をやや強引に纏めてみます。倭姫命=巫女アマテラス、天照大神=太陽神で、持統上皇はその両者でした。となれば、上皇が東三河に行幸した目的は、やはり巫女アマテラスの死と、太陽神・天照大神の再生を心的に追体験し具現化するためであり、それに死と再生を司る秦氏が関与していたことになりそうです。

ところで、「その55」において以下のように書いています。

神服織機殿神社と神麻続機殿神社がかつて同じ場所にあり、神服織機殿神社は服部麻刀方神社 の論社だとすれば、結局、神服織機殿神社と神麻続機殿神社は共に円方にあり、この地で倭姫命は天照大神の御服と神荒衣を織らせたことになります。

円方の地で倭姫命(=持統上皇)は天照大神(=持統上皇)の御服と神荒衣を織らせたとしたら…、何のことはありません。これは単に、持統上皇が自分の御服と神荒衣を円方で織らせたことに他ならなかったのです。

三河国服部郷に鎮座する服部神社の解説板には、大化の改新(645年)頃には服部郷があり、生糸が紡がれていたと書かれていました。持統天皇の頃には既に三河赤引の糸が伊勢神宮に奉献されていたのです。そのことと持統上皇が自分の御服、神荒衣を円方で織らせたことは時代的にもマッチしてくると思えませんか?

いかがでしょう?持統上皇東三河行幸の隠された意味は元伊勢の旅でした。倭姫命(=持統上皇)の元伊勢が渥美半島の田原市であるなら、上皇の東三河(渥美半島)における上陸地は当然のことながら田原市になってしまうのです。(注:元伊勢は他にも各地にあります。本ブログにおいてはストーリーに見合った場所のみを取り上げている点お含みください)

              東三河の秦氏 その58 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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