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東三河の秦氏 その60 持統上皇東三河行幸の謎


引馬野は御津町と曳馬町のどちらなのか、もう一度長忌寸奥麻呂の万葉歌から考えてみます。

引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
引馬野に美しく色づく(染まる)榛(はん)の木の林の中へ皆で入り乱れ、衣を染めなさい。旅の記念に。

榛(ハンノキ)はカバノキ科の落葉低木で山野の湿地帯に自生し、実や樹皮が染料になるとされます。詳細は以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/greensv88/jumoku-zz-hannoki.htm

「にほふ榛原」は榛が咲いている意もありますが、行幸が秋である点を考慮するとその解釈は誤りとなります。かと言って、榛原に入ったとしても堅物の実や樹皮では衣を染めるイメージに繋がりません。

晴れた秋空の下、どこまでも澄み切った空気の中で、衣が黄葉の黄に染まってしまう。さあ皆で榛の林に入って衣を黄に染め、旅の記念にしようではないか。そんな明るい意味の歌と理解されそうです。従って、「にほふ榛原」は黄葉の色が映える、黄葉の色に染まるの意と解釈することになります。榛の実や樹皮では衣を染められないのに、あえて榛原と詠じたことから、この歌は上皇の脳裏に浮かんだイメージを元に作られたイメージソングと思われます。

榛原は萩原で萩の木の林と考えれば、秋に咲く花を染料にすることから、実景と歌が何とかマッチしそうですが、この議論はややこしく深入りできません。詳しく知りたい方は以下を参照ください。
http://books.google.co.jp/books?id=Tbqot5id9PkC&pg=PT33&lpg=PT33&dq=%E6%A6%9B+%E8%90%A9&source=bl&ots=Ni-FfyxTH9&sig=sDpTu90EfrQNcM575FLPRCv7AgE#v=onepage&q=%E6%A6%9B%20%E8%90%A9&f=false

引馬野の歌がイメージソングと思われる理由は他にもあります。持統上皇の行幸ルートに当たる宇陀市(菟田)には榛原萩原の地名が存在します。そして遠江国の引馬野一帯は、持統天皇と歌の作者である長忌寸奥麻呂に関係がありました。つまり上皇は、通過した菟田の榛原萩原と、関係はあるが行けそうにない遠江国の引馬野を重ね合わせ、それに見合う榛の自生した御津町御馬で、自分の情感を歌にするよう奥麻呂に命じたのではないでしょうか?

澄み切った空気感に包まれ、上皇の中にこれがこの世における自分の最後の旅だとの感慨も湧いていたはずですが、奥麻呂もそこまで歌に織り込むことはできなかった、或いは察することができなかったのです。

「続日本紀」に遠江国行幸の記載がなく、曳馬町一帯に持統上皇が訪れた伝承もなく、引馬野の歌がイメージソングであることから、万葉歌にある引馬野は持統上皇が行幸で訪れた御津町御馬と考えて間違いなさそうです。

以上より、「上皇は三河・安礼の崎に上陸し、海岸沿いの御津町御馬(引馬野)を経て行在所(あんざいしょ)に入ったものと推定されます」としたいのですが、実はこの推定にも疑問があります。榛原は榛の木の林で、榛の木は山野の湿地帯に自生する木とされます。仮に萩としてもやはり山野に自生すると思われます。引馬神社の解説板では安礼の崎と同じ海岸沿いを引馬野としていますが、海岸沿いの平地に榛の木(或いは萩の木)の林があるとは思えません。

話を少しそらせます。「東海の秦氏 その9」において、「静岡県榛原郡、現在の島田市初倉には秦氏が居住しており、谷口原にある敬満神社は、秦氏の租神である功満王 を祀っているとされます。」と書いています。榛原の地名がある宇陀市には秦氏の痕跡が多く、静岡県榛原郡も同様と思えます。東三河に秦氏が多い点も既に確認済みですから、引馬野の榛原が秦氏関連で歌われた可能性も少しはありそうです。

雑談はさて置き、引馬野が海岸沿いの御津町御馬でないとしたら、一体どこが引馬野に相当する場所なのでしょう?実は、もっと内陸の為当町市木交差点近くの市木公園内に引馬野の万葉歌碑が設置されています。と言うことで急ぎ現地に向かいます。


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為当町市木交差点と公園の位置を示すグーグル画像。

画像右下の市木公園は小さな児童公園です。

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歌碑です。建立は昭和52年(1977年)。

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引馬野の石碑。

この石碑は明治20年(1887年)の建立で、公園近くに碑が埋もれていたのを移したとのこと。石碑から、引馬野が海岸沿いではなく内陸部に位置していたとの認識が、120年以上前にあったことが推定されます。

榛も萩も海岸沿いの自生は疑問があるのに対して、為当町市木交差点付近一帯なら、西に御津山があり、二本の川に挟まれていて榛の木(或いは萩の木)が自生する条件を備えていそうです。以上より、万葉歌の引馬野に相当する地点は東海道線南側の海沿いではなく、内陸部の御津山付近一帯を指すものとなり、上記の万葉歌は一旦上皇が行在所に入ってから詠まれたものと判断されます。次のグーグル画像を参照ください。


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グーグル画像。

為当町市木交差点は御津支所と書かれた辺りです。交差点の西側が御津山で、北側は新宮山となっています。両方の山はワニの口のように開いた谷戸地形の先端部に当たります。新宮山から画像を西に動かすと谷戸は宮路山の南麓で狭まっていきます。こうした地形は古代人が好んで住み着き、酔石亭主も好きな場所です。地形的には徐福一族が渡来したとされる富士山麓の小明見、大明見と酷似していますね。

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御津山。

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新宮山。

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谷戸部分を撮影。谷戸の手前なので広々としているように見えます。

いかがでしょう?この辺りが引馬野にぴったり合いそうな雰囲気を持っていると思えませんか?つまり、御津山、音羽川、新宮山を結んだラインから北西側に広がる谷戸一帯(現在の豊川市御津町広石)がかつての引馬野であると推定されるのです。そして広石こそが、古東海道と二見道の分岐点でした。古代の東海道がどんなルートであったのか不明ですが、五井山から宮路山を越え南麓の谷戸に降りて広石に出るルートだったと想像されます。(注:あくまで想像ですが…)

広石が古東海道と二見道の分岐点とすれば、ここが引馬野(馬を引いてとどめる野)として最もふさわしそうな場所に思えてきます。谷戸地形が狭まる宮路山南麓も面白そうな場所なので、もっと後の回で見ていく予定です。


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広石一帯を示すグーグル画像。

新宮山と御津山のいずれも広石に含まれます。画像を拡大すれば、宮路山、五井山も見えてきます。

555_convert_20131120133801.jpg
現在の広石交差点。

思ったより狭い交差点でした。御津北部小のすぐ南の交差点が広石交差点です。広石全体のちょうど真ん中になるこの場所が、古東海道と二見道の分岐点だった可能性もありそうです。

ところで、持統上皇は引馬野で車駕を馬に引かせたのでしょうか、或いは馬に乗ったのでしょうか?一般的に車駕は牛車で、牛に引かせているはずですが、行在所に入ってからの短距離・日帰り移動は馬を使ったのかもしれません。

            東三河の秦氏 その61 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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