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東三河の秦氏 その61 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
11 /22 2013

前回では万葉歌を中心に検討したため、行在所へ入ってからの地名となる引馬野の位置特定に時間が掛かってしまいました。今回は持統上皇が安礼の崎に上陸してから行在所に入るまでを検討していきます。まず、以下の音羽川河口の地図画像を参照ください。画像には「都」の地名があります。なぜここに「都」の地名があるのでしょう?


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音羽川河口周辺の地図画像。引馬神社の位置も確認できます。

佐脇神社の由緒によれば、「大宝二年(702)持統天皇三河に御行の際、この地を『都』と名づけ御所川の水を奉る。字『天神』という所に「国帳」に記載の正五位下、下佐脇天神を奉斎していたが平安朝の末期に紀州熊野本宮の人、熊野三神を戴いてこの地に移注し、後にこの二社を合併合祀し、熊野権現と称した」、とのことです。天神の所在地も音羽川周辺の地図画像を参照ください。佐脇神社の由緒詳細は以下のホームページに出ています。
http://www.ooyasiro-jinjya.com/jinjya/mito/sawaki-1.html

御津町一帯は行幸における上皇の一時的な滞在地に過ぎません。そこに「都」の地名を残したとすれば、持統上皇と文武天皇にとって、「都」は単なる行在所の所在地を越えた深い意味があるはずです。例えば、ほとんどトンデモ説ですが、藤原京は一時東三河に移転していたとか……。上皇と天皇が東三河に比較的長期間滞在していたら、政務もそこで執ったでしょうから、一時的な移転と言っても違和感はなさそうです。

佐脇神社の由緒から、音羽川はかつて御所川と呼ばれていたと理解されます。安礼の崎に上陸した持統上皇は都に行き、そこから天神に入ったものと思われます。となると、下佐脇天神の創建に上皇が関与していたのかもしれません。そのまま音羽川を遡ると、御津町下佐脇に「御所」の地名があります。この辺りが上皇の行在所跡になるのでしょうか?


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御所(地名)の位置を示すグーグル地図画像。

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御所には海会寺があります。寺の辺りの写真。

地図画像で宮浦と書かれたところに橋があります。この橋が御所橋です。

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御所橋。

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もう一枚。『ごしょばし』と平仮名で書かれています。

御所から御所橋を渡り、川沿いの堤道を下ります。御所を示す地図画像で音羽川の音の字の辺りにこんもりした小さな森があり、そこに持統上皇行在所跡の碑が建っています。

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行在所跡の写真。

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行在所跡の石碑。

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石碑裏面の解説。

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解説板。

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行在所跡周辺は一面の田んぼです。

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新幹線が走っていました。

やや不可解なのは御所の地名は音羽川の左岸(上流から見て川の左側)にあり、行在所跡の石碑は右岸にあることです。当然御所の地名がある側に行在所跡の石碑を建てるべきですし、その程度のスペースもあるはずです。そうなっていないのには、何か理由があったのでしょうか?例えば行在所跡付近に持統上皇の行在所があり、地名の御所付近には文武天皇の仮宮があったとか……。(注:解説板では御所に行在所があったような記載となっています)

          東三河の秦氏 その62 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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酔石亭主

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