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東三河の秦氏 その64 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
11 /25 2013

持統上皇と直接関連はないものの、御津町には気になる地名が幾つかあります。豊川市御津町下佐脇には羽鳥の地名があり、羽鳥大明神が祀られていました。現在は「その48」にて書いた服織神社となっています。秦氏との関係が想定される羽鳥の地名が持統上皇の行在所近くに存在することは、意味深いものがあると思われます。


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羽鳥の位置を示すグーグル地図画像。

さらに機織り関連では豊川市伊奈町には縫殿の地名もあります。松阪市には織殿神社もありますが、関係するのでしょうか?遠い昔、羽鳥で織った衣を縫殿に持ち込んで縫っていたのかもしれませんね。なお縫殿は縫殿寮を意味し、律令制で、中務(なかつかさ)省に属し、天皇および賞賜の衣服を裁縫し、また、女官の考課をつかさどった役所。とのことです。東三河がいかに朝廷と密接であったか、この地名からも推定されそうです。


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縫殿の位置を示すグーグル地図画像。

ところで御津町の地名は何に由来するのでしょう?Wikipediaで調べたところ、以下のような記載がありました。

『総国風土記』によると、孝元天皇が東国へ行幸した際に、乗っていた船を寄せたことから、当地を御津湊と名付けたという。「津」「湊」はいずれも港を意味し、これに尊称「御」が付いている。「御津町」の名は、これに由来する。


実在が疑問視されている第8代・孝元天皇が予期せぬ形で登場してきました。あまりに唐突で毛ほどの必然性もありません。これは怪しいですね。御津町の地名由来には何か裏がありそうなので、取り敢えずWikipediaで孝元天皇をチェックしてみます。

孝元天皇(こうげんてんのう、孝霊天皇18年 - 孝元天皇57年9月2日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第8代天皇(在位:孝元天皇元年1月14日 - 同57年9月2日)。大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)・大倭根子日子国玖琉命(古事記)。「ヤマトネコ」という称号は7代孝霊・8代孝元・9代開化、少し離れて22代清寧の諸天皇(『古事記』)に見え、『記・紀』の編纂が最終段階に入った7世紀末から8世紀初めに存在した持統・文武・元明・元正の諸天皇(『日本書紀』・『続日本紀』)の称号にも見える。このことは、7,8,9代の天皇の称号を、後世の『記・紀』編纂最終段階に存在した天皇の称号に似せて造作したという疑いが濃厚である。

なるほどそう言うことですか。上記の内容を読んでいるうちに、裏の事情も見えてきました。孝元天皇の和風諡号である大日本根子彦国牽尊が、文武天皇の諡号に似せて造作された疑いが濃いと言う部分です。文武天皇の諡号は2つあり、倭根子豊祖父天皇(やまとねことよおほぢのすめらみこと)と天之真宗豊祖父天皇(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)です。よって、文武天皇の2つの諡号のうち倭根子豊祖父天皇に似せて孝元天皇の諡号が作られたことになります。

以上から孝元天皇=文武天皇となり、「総国風土記」の孝元天皇行幸記事は文武天皇の東三河行幸を意味していることになります。ここからも、文武天皇は持統上皇の東三河行幸に先立って御津湊(安礼の崎)に上陸したと理解されます。何のことはありません。御津町の地名も文武天皇に由来していたのです。御津町御馬の御馬も、文武天皇の時代に馬が輸入され(異説もあります)各地に牧(まき)が定められていることから、文武天皇との関係が推定されます。

でもどうして「総国風土記」の編者は孝元天皇の行幸としたのでしょう?偽書ともされる「総国風土記」の編纂年は和銅6 年(713 年)で、文武天皇の崩御は707年です。ほぼリアルタイムに記事が書かれていることから、編者が事実関係を間違えるはずもありません。

多分編者は、公式なものでない文武天皇の東三河行幸を書かないよう朝廷から圧力を受けていたのです。困った編者は、孝元天皇の諡号が文武天皇の諡号に似せて作られていることに着目し、孝元天皇の行幸と書き込んだのでしょう。読む人が読めば文武天皇のことだとわかるように……。これは賢い編者による一種の暗号化作戦ですね。

ここまで豊川市の気になる地名を拾っていますが、もう一つ妙な話があります。それは三河吉野朝がこの地にあったとする説です。単なる与太話かと思ったのですが、公式文書の中に出ており、見合う地名も多数存在するので看過できません。以下は豊川市の「市勢要覧 昭和28年版」よりの引用です。

三河吉野朝について
南朝三世四世代即ち第96代後醍醐天皇から後村上、長慶、後亀山天皇にいたる五十七年の都が大和吉野のみでなく,そのうちの十二年が三河南朝であったことが明らかとなって三河吉野朝と名付けられたのである。
大正15年10月21日第98代に登録せられた長慶天皇は興国3年後村上天皇の節一皇子として三州丹野で御出生になり、御油隠れ沢天台宗明燈院で御成人、正平23年3月11日御父後村上天皇の崩御によって三河御津の御所宮〔御駒〕に践詐、時に御齢27才であらせられた。御在位五年、文中2年8月異母皇太弟後亀山天皇に御譲位になって、御油隠れ沢の明燈院を望理原王田淵〔市内小田淵町〕に移築して遷御せられ、天授5年9月20日御齢38才で崩御にいたるまで七年間院政を御執りになった。
此の御所宮在位五ヶ年と小田淵仙洞御所世に云う王田殿院政七ヶ年計十二ヶ年が三河吉野朝の時代であり、三河は今から五百数拾年の昔南朝終焉の地であった。
尚豊川市及び宝飯郡には「御」のつく字を始め、尊貴の地名が数多く残されており、皇居が此の地に在ったことを裏付けている。即ち御油、御所宮、御所川、仙路、都、つるぎ、玉袋、かがみ、院内、院之子、三尊子、天皇山などそれで、前に記した王田殿小田淵の御殿の意で、小田淵もと王田淵でみかどが御住いになったので王田の名が生れ、市内森町に日落〔ひおち〕の地名があるが、天子の崩御即ち日落つの意味であらう。

「市勢要覧」は全文がデジタル化されており、とても便利です。内容は以下を参照ください。(三河吉野朝の項は要覧のP152から153となります)
http://oshimamd.sakura.ne.jp/kosyo/kawasiyouran_s28.pdf

長慶天皇に関しては「富士山麓の秦氏 その18」で石碑の写真をアップしています。また「その8」で御所の地名は天皇にちなんでいるかもしれないと書いています。三河吉野朝崩壊後、長慶天皇は逃げのびて富士山麓に隠れ南朝を設置したことになりますが…、まあこの辺は酔石亭主の守備範囲ではないので、「そんな話もあるそうです」としておきます。ただ不思議なのは、なぜか長慶天皇が逃げた土地は徐福と秦氏に関係がある点です。南朝と特殊技能民との関係がそうした結果をもたらしたのでしょうか?

それはともかく、持統上皇に関連する地名が三河吉野朝関連で書かれているのには少々困惑させられます。長慶天皇の院政に関連しそうな院田(院田は要覧には記載ない)や院之子、御所のあった小田渕(王田渕)、国府町仙路などの地名は現在もあり、これらは三河吉野朝関連で間違いなさそうです。しかし、都や加美、膳田、玉袋、剣、御油、御所などは持統上皇関連のはず。混乱の元となりますので、持統上皇と長慶天皇に関連する地名はきちんと切り分けてほしいと思います。


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望理原王田淵(=小田渕)の位置を示すグーグル地図画像。

長慶天皇の御所は望理神社辺りと思われます。長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国に20カ所以上あるとのことで、これ一つ取ってもよくわからない人物であると言えそうです。

話を持統上皇関連に戻します。豊橋市牛川町浪ノ上13番地には正圓寺があり、ここにも持統上皇の足跡が残されています。寺譜によれば、以下の通りです。

702年の冬、持統上皇は三河を行幸しておりました。豊川を渡った先で断崖の上に瑠璃光がさし、神人が現れ、「この地は山と海に囲まれたまことに良い土地である。私はここで霊材を見出し、護ってきた」と告げると、パッと薬師如来の姿を顕しました。それをみた上皇は、鳳来寺山にいた利修仙人に薬師如来の像を作らせました。一説には、鳳来寺山薬師如来の余材を用いたとも言われています。

内容詳細は以下の正圓寺ホームページを参照ください。
http://www.tees.ne.jp/~shouen/annai/enkaku.html

鳳来寺山の利修仙人に関しては以前に書いていますが、こんなところにも出てきました。留意すべきは、「豊川を渡った先で、」とある点です。豊川の東に位置する正圓寺からおよそ3km北には二見道があります。これは何を意味しているのでしょう?そう、この伝説は持統上皇が元伊勢浜名宮に向かうため、二見道を東へ移動している途中の出来事と考えられるのです。

ここまで見てきたのは、引馬野と正圓寺を除き全て海岸に近く東海道本線の南側に当たる地域でした。持統上皇は行在所から日色野町の菱形に向かい、そこで秦氏の助力を得て再生の儀式を執行したものと推測されます。(注:持統上皇の三河国における動静は史書に何も書かれていないので、あくまで様々な状況を勘案した上での酔石亭主の推測・想像です)

上皇が菱形に向かうルートは、御所橋を通る平坂街道(へいさかかいどう)を利用したものと思われます。平坂街道は東海道の小坂井から分岐し、「 平坂湊」(西尾市平坂町)に至る約40キロメートルの街道となります。街道の詳細は以下を参照ください。地図をクリックすれば街道が上皇の行在所に近い御所橋を通ることも確認できます。
http://network2010.org/article/266

もちろん、古代において平坂街道があったとは考えられませんが、元となる道はあったと想定されます。平坂街道が実に便利な交通路だったからこれを利用しない手はなく、街道のど真ん中に御所(行在所)が設置されたのでしょう。面白いのは平坂街道が東海道の小坂井から分岐している点です。分岐点のすぐ近くには菟足神社が鎮座していることから、上皇は秦氏と関係の深い菟足神社を訪問したのかもしれません。その上で豊川沿いに下り菱形の地(日色野町)に入ったものと思われます。

菱形で再生の儀式を滞りなく終えた上皇は菱形から行在所に戻ります。死と再生の儀式が天照大神の岩戸隠れを心的に追体験するものであり、その後の活動が記紀神話の流れに沿うものだとすれば、上皇は次に宮路山に向かったと推定されます。宮路山は標高が361mでさほど高い山ではありません。また古代東海道は宮路山を通っていたとされています。けれども、およそ二ヶ月後には崩御される上皇にとって、物見遊山で行ける場所ではなさそうです。

それでも行ったのは、多分行かなければならない必然性があってのことでしょうが、持統上皇の東三河における活動を探索するのは一旦打ち切り、同時期東三河にいたと推測される文武天皇について検討したいと思います。

理由は、その方が宮路山に行く意味により迫れそうだと思われるからです。いずれにしても、「続日本紀」に三河国行幸の記載がある持統上皇と異なり、どの史書にも文武天皇の同地行幸は書かれていないので、簡単な作業ではなさそうですが……。

             東三河の秦氏 その65 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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酔石亭主

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