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東三河の秦氏 その65 持統上皇東三河行幸の謎


今回から文武天皇の東三河行幸(或いは同地滞在)について検討します。もちろん史書に記載はないので、地元の伝承を拾い上げどのように繋げられるか見ていくしかありません。比較的知られているのは、鳳来寺山における利修仙人との関係です。詳しく調べたいと思い、図書館にて「三河国一宮砥鹿神社誌」を開いたところ以下の記載がありました。

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「三河国一宮砥鹿神社誌」です。一つの神社を扱うにしては実に分厚い本です。

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「三河国一宮砥鹿神社誌」の中にある記事。赤括弧部分を参照ください。概要は以下の通りです。

文武天皇の大宝年間(701-704年)に天皇が病を得た。夢のお告げにより煙巌山(現鳳来寺山)に住む勝岳仙人(=利修仙人)を迎えるため、勅使として草鹿砥公宣卿が下向したが、山中で道に迷い呆然としていた。そこに老翁が出現して道を教え、童子に随行させた。途中で鬼害に遭うが童子は宝棒で打ち払い、ほどなく煙巌山に到着し勝岳仙人に面談。事情を説明し上洛を懇願したものの、仙人はこれを拒否した。公宣卿が悲嘆に暮れているのを憐れみ、仙人が上洛して加持修法行うと、天皇の病はたちどころに癒えた。
天皇は後に公宣卿から山中で遭った不思議な老翁の話をお聞きになり、再度勅使を下向させた。公宣卿は再び本茂山(ほのしげやま=穂の茂山=本宮山)に入って老翁に面会し、その望みにより山麓に宮居を建てることとなった。その時老翁は着衣の一部を川に流したが、公宣卿は清水のほとりで衣を拾い上げ、その近くで斎き祀った。この時、老翁すなわち砥鹿大明神は以下の歌を詠じた。

  知るやいかに 吾が名を問はば ちはやぶる 神の初めの 神とこそ言はめ
 (知っているだろうか、私の名を問うのなら、ちはやぶる神代の昔の初めの神である、と言おう)

砥鹿神社ホームページは以下を参照ください。ほぼ同じ内容が書かれています。
http://www.togajinja.or.jp/satomiya_rekishi.html

「三河国一宮砥鹿神社誌」の記事には重要なポイントがあります。この由緒には鳳来寺山の鳳来寺と本宮山麓に鎮座する三河国一宮砥鹿神社の両方の創建伝承が語られており、いずれも文武天皇の病に関係している点です。砥鹿神社の祭神は大己貴命ですが、東三河三神山の一つ石巻山に鎮座する石巻神社祭神も大己貴命です。

本宮山と石巻山の神が背くらべをするために二つの山に樋を掛けて水を流したところ、石巻山の方に水が流れこみ本宮山が勝ったと言う伝説や、ダイダラボッチの伝説でも本宮山と石巻山は繋がっています。こうして見ると、鳳来寺山、本宮山、石巻山の東三河三神山は相互に密接な関係があったと理解されます。

よくわからないのは、老翁=砥鹿大明神の存在です。「牛窪記」には本宮山下には秦氏が多いと書かれているので、秦氏長老の可能性があり、大己貴命の可能性もあります。或いは穂国造の祖神・朝廷別王かもしれません。いや、本宮山山頂にはアラハバキも祀られているので、もっと古い縄文の神の可能性もあります。候補が多すぎるので老翁の実体は不明とするしかなさそうです。

さて、砥鹿神社の創建伝承に文武天皇と鳳来寺が出ていることから、鳳来寺側の創建伝承もチェックする必要があります。「鳳来町誌」を開くと以下のように書かれていました。

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鳳来町誌。

鳳来寺側の伝承では698年つまり文武天皇2年に利修仙人が天皇の病を癒されたことになっています。砥鹿神社側と年代に若干の違いがありますが、誤差の範囲内としておきます。ただ、疑問もあります。藤原京にいるはずの文武天皇病気治癒祈願を、なぜ鳳来寺の利修仙人に依頼しなければならないのでしょう?

利修仙人は鳳凰に乗って上京したとされます。もちろんそれは伝説にすぎず、都に駆けつける前に天皇が崩御される恐れもあります。天皇の病気治癒祈願なら、常識的に見て、利修仙人などではなく大和周辺にゴマンとある神社やお寺に命じるべきなのに妙ですね。また本件に砥鹿神社を創建した草鹿砥公宣卿が関与している意味も考える必要があります。

文武天皇の病気治癒祈願に鳳来寺の利修仙人が指名されるのは不可解ですが、これは天皇が藤原京にいる前提での話。仮に東三河にいたとするなら、すぐに駆けつけることもできるはずで、内容に整合性が出てきます。

そう、これは鳳来寺の利修仙人が東三河にいた文武天皇の病を癒した話なのです。東三河には「都」の地名まであるですから、トンデモ説かもと書いた藤原京の東三河一時移転に真実味が増してきました。と言うことで、文武天皇が東三河にいたなんて話がどこかにないか調べてみましょう。「鳳来町誌」を再度チェックします。

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鳳来町誌。

ここには時代ごとの鳳来寺縁起が記されています。その中に「鳳来寺聞書」なる縁起があり、宝永3年(1706年)に太田白雪が記し湯川安吉が写したとされます。「鳳来寺聞書」は幸いデジタル化されており、チェックしたところ以下のような驚くべき内容が書かれていました。

聞書、文武天皇 東夷そむくにより、是を攻めさせ玉はんため、當国宝飯郡星野の郷に、大和の国、藤原の都を移させ玉ひ、既に皇居3年、此の時、鳳来寺への御立願の事ありて、公宣卿勅使に立玉ふと云えり

文武天皇は東国の蝦夷が朝廷にそむいたので、これを攻めるため三河国宝飯郡星野の郷に大和の藤原(藤原京)の都を移転され、既に皇居に3年滞在し、この時鳳来寺への願い事があり公宣卿が勅使に立たれたと言われる。

「鳳来寺聞書」の全文は以下を参照。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-30914&IMG_SIZE=&IMG_NO=8

仮に698年に文武天皇が東三河にいたとして、702年の持統上皇行幸まで4年となります。「鳳来寺聞書」では3年間東三河にいたことになりますので、鳳来寺の伝承とほぼ重なり真実味は一層増してきそうです。

これで、なぜ利修仙人が遠く離れた藤原京にいる文武天皇の病気快癒を祈願するのかと言う疑問は解消されました。文武天皇が東三河の星野にいる前提であれば、鳳来寺山の利修仙人が直ちに駆けつけることも可能になるのです。この状況証拠は文武天皇の東三河滞在を示すものと言えるでしょう。「三河国宝飯郡誌」には「正岡村(旧行明郷ノ地ニテ星野荘云々)」とあり、現在の正岡町、行明町を中心とした一帯から下条までを星野と特定できそうです。(注:星野の郷に関しては「その19」に出てきますので参照ください)


大きな地図で見る
星野の郷一帯を示すグーグル地図画像。

(注:星野の郷は当地の豪族であった星野氏に由来すると推定されるので、文武天皇当時に星野の地名があったとは思えません)

なおWikiによれば、「東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から南関東地域と甲信地方を指した。」とのことです。東三河はちょうど東国との境に当たり、その意味でも朝廷にとって重要な場所だったのです。

持統上皇が上陸した御津町には「都」の地名がありました。上皇の到来に伴い文武天皇は星野の郷を出て、行在所近くに仮宮を設け、しばしの時間を一緒に過ごしたものと推定されます。だから御津町に「都」の地名が残ったのです。

            東三河の秦氏 その66 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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