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東三河の秦氏 その67 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
11 /29 2013

持統上皇の宮路山行幸に関してはまだ書いていませんが、当然文武天皇も同行したものと思われます。宮路山行幸を終えた持統上皇は、二見道の分岐点(現在の豊川市御津町広石と想定)で文武天皇と別れます。別れた後上皇は、既に何度か書いたように、元伊勢・浜名宮に向かうことになります。

一方文武天皇は一旦仮宮のあった音羽川の御所辺りに戻り、そこから尾張国行幸のため平坂街道を蒲郡方面へと向かったものと思われます。持統上皇と文武天皇がこの地に行在所を置いたのは、菱形、二見道、宮路山、蒲郡から尾張方面のいずれに行くにも至便だったからと改めて実感させられました。

平坂街道は東海道の小坂井から分岐し、三河南部の海岸に沿って進み、西尾市平坂町の「 平坂湊」に至る約40キロメートルの街道です。ルートは以前にも掲載した以下のホームページを参照ください。
http://network2010.org/article/266

上記ホームページには豊川市、蒲郡市、幸田町、西尾市のそれぞれのエリアにおける平坂街道が記載あるので是非ご参照ください。ホームページの地図に従えば、文武天皇は音羽川に架かる御所橋からほぼ海岸線に沿って西に進みます。平坂街道は東海道線の三河塩津の辺りで北西に針路を取り内陸部に入るのですが、文武天皇は途中寄り道したようです。

すなわち文武天皇は三河塩津で平坂街道と別れ、なおも海岸線に沿って進み、幡頭神社方面へと向かったと想定されるのです。


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三河塩津を示すグーグル画像。

理由は高市連黒人の歌にあります。天皇と同行したのは、既に書いたように高市連黒人ですが、彼は羇旅(きりょ)の歌八首のうちの一つ(巻三・271)で以下のような歌を詠んでいます。

四極山打ち越え見れば笠縫の島漕ぎ隠る棚なし小舟
四極山(しはつやま)を越えて眺めれば、笠縫の島に棚無し小舟が漕ぎ隠れていった。

この歌で思い浮かべられる別の歌があります。そう、持統上皇が御津町に上陸した際、高市連黒人が詠じた以下の歌です。(詳細は「その58」を参照)

いづくにか舟泊てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚なし小舟
右一首高市連黒人

一体何処に舟泊まりしているのだろう、安礼の崎を漕ぎ廻って行った、あの棚なし小舟は。

二つの歌は棚板のない小舟や、小舟が笠縫の島、安礼の崎を漕ぎ廻り隠れていく描写がほぼ共通しており、ほとんど同じように見えます。しかし、内容はまるで別人の歌と思えるほど異なっています。「いづくにか」の歌は視点の中心に持統上皇がいるため、上皇の思いに黒人が自分の情感をも織り込んだ複雑な内容のものとなっています。

一方「四極山」は黒人の羇旅の歌(旅の歌)であり、視点は黒人自身しかないため、実にあっさりしたものになっています。同じ「棚なし小舟」の歌なのに情感がまるで異なっているのはなぜでしょう?理由もうわかりますね。黒人は二見道において上皇と別れ、文武天皇に従って旅を続けたため、上皇の思いを詠む必要がなくなり、別人のようにあっさりしたものとなったのです。

似たような高市連黒人の歌を拾ってみます。

高市の歌一首
率(あども)ひて漕ぎ去にし舟は高島の安曇(あど)の港に泊(は)てにけむかも(巻9・1718)

声をかけ合って、一緒に漕ぎ去って行った船は、今頃高島の安曇の港に船泊まりしただろうか。

高市連黒人の歌一首
住吉(すみのえ)の得名津(えなつ)に立ちて見渡せば武庫の泊(とまり)ゆ出づる船人(巻3・283)

住吉の得名津に立って見渡すと、武庫の泊から船人たちが漕ぎ出してゆく

上記の4首を比較してみましょう。
1.「四極山」の歌は小舟が漕ぎ隠れていったところで終わっている。
2.「いずくにか」の歌はどこに舟泊りしているのだろうとあり、小舟が漕ぎ隠れてからの舟泊まり場所を心の中で追っている。
3.「率ひて」の歌は舟泊まり場所を予想している。
4.「住吉」の歌は舟泊まりした後に漕ぎ出している様子が詠われている。

こう並べ変えると、あたかも映画のカメラワークのように、歌に読み込まれた小舟の位置やカメラの視点・心象風景が移動しています。黒人には一連の舟歌シリーズを作歌する意図があった可能性も見て取れ、その作り方は優れて現代的なものに思えてきます。

でも本記事において重要なのは、「いずくにか」の歌とそれ以外の歌の情感が大きく異なる点です。「いずくにか」の歌以外はどれもあっさりした内容となっており、この違いから、カリスマ的な持統上皇が黒人に与えた影響の大きさを測ることができます。一方「四極山」の歌時点では上皇の影響が皆無であることから、上皇に同行していない点まで明らかとなります。よって「四極山」の歌は文武天皇の尾張国行幸時に詠まれたと推定されるのです。

話を元に戻します。四極山とは四方を見渡せる山を意味し、幡頭神社北側の山群と推定されます。


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幡頭神社及び四極山を示すと推定される一帯のグーグル画像。

幡頭神社(鎮座地:幡豆郡吉良町大字宮崎字宮前60番地)は日本武尊東征に従軍し、旗頭(はたがしら)を務めた建稲種命が帰途、伊豆沖の海上で遭難し、遺骸がこの岬に流れ着き、村人が祀って神社の創建となりました。大宝2年、文武天皇の勅により社殿を建て官社に列せられたとされます。

もしかしたら、文武天皇は実際に現地に赴き社殿を建てさせたのかもしれません。そのために天皇は尾張国への行幸に古東海道ではなく、平坂街道を利用したものと思われます。文武天皇の仮御所が音羽川沿いに設置されたのは、持統上皇にとってのみならず、天皇にとっての利便性も十分に考慮されていたのです。

それはともかく、わざわざ寄り道するほどですから、文武天皇と日本武尊は何か繋がりがあるようにも思えてきました。そこで両者の関係を調べたところ、「続日本紀」大宝2年(702年)8月癸卯条には、「雷、日本武尊陵に震す。使を遣し之を祭る」とありました。気比神社においては、日本武尊が文武天皇の大宝2年(702年)に合祀されています。五島市の白鳥神社由緒によると、文武天皇が大宝2年日本武尊を守護神として祀ったとあります。持統上皇が訪問した宮路山は、日本武尊が東征の折、第3子である建貝児王(たてがいこのおおきみ)を封ぜさせた地であり、ここには文武天皇も同行していたはずです。

上記のように並べると、文武天皇は日本武尊に相当入れ込んでいるようにも思われます。以前「熱田神宮の謎を解く」で建稲種命は東国版日本武尊と書いていますが、文武天皇は日本武尊の鎮魂のため、尾張、美濃、伊勢、伊賀などに行幸したのでしょうか?

既に書いたように倭姫命=持統上皇で、倭姫命は日本武尊の叔母に当たります。持統上皇は文武天皇の祖母に当たります。倭姫命と日本武尊。持統上皇と文武天皇。この関係はかなり相似していると思えませんか?

だとしたら、文武天皇は自らを日本武尊に擬したのかもしれません。「鳳来寺聞書」にある、「文武天皇は東国の蝦夷が朝廷にそむいたので、これを攻めるため三河国宝飯郡星野の郷に大和の藤原(藤原京)の都を移転され、云々」の記述はそれを裏書きしているようにも思えてきます。

日本武尊関連は現在のテーマから外れるため話を元に戻します。四極山山麓付近の西尾市吉良町乙川西大山には正法寺古墳があり、古墳時代中期初頭(5世紀初頭)に築かれたたと推定される西三河最大の前方後円墳で、国の史跡に指定されています。文武天皇はこうした古代の要地を経由しつつ行幸したのかもしれません。

天皇は四極山から北上し現在の西尾市の中心となる上町辺りに至りました。そう推定される理由は、文武天皇に関連する伝説がここにも残されているからです。西尾市は三河万歳発祥の地ともされていますが、三河万歳の起源に文武天皇が関係しているのです。三河万歳発祥に関しては現在四つの説があり、4説のうち2説が文武天皇、1説が持統天皇(上皇)又は文武天皇が関連するものとなっており、文武天皇説が有力です。詳細は西尾市のホームページは以下を参照ください。
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,2136,91,409,html

酔石亭主は「吉良太夫説」その1が有力ではないかと思います。内容をホームページより引用します。

壬申の乱(672)後に森下の地(現在の西尾市上町北側)に移り住んだ高坂王の長男・吉良太夫が、持統天皇(または文武天皇)の三河行幸のときに御前で万歳を舞ってお祝いした。その後、森下で万歳を舞うものが多くなった。(天和2年(1682)編『万歳系図書』ほか)


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西尾市上町北側を示すグーグル地図画像。

高坂王は飛鳥時代の皇族で、壬申の乱において当初は大友皇子の側につき、敗れて後は大海人皇子(天武天皇)に従いました。没年は天武天皇12年(683年)となります。

文武天皇一行は西尾市から尾張国の年魚市潟(あゆちがた)方面へと進みます。それは高市連黒人・羇旅の歌八首のうちの一つ(巻三・271)から読み取れます。

桜田(さくらだ)へ鶴(たず)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴き渡る
桜田の方へ鶴が鳴きながら飛んでいく。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴いて飛んでいく

桜田に相当しそうな地名は二ヶ所あります。名古屋市南区元桜田町と名古屋市熱田区桜田町です。万葉歌に詠われた桜田は多分元桜田町だと思います。なぜならそこは「熱田神宮の謎を解く その8」で書いた松炬島に相当し、元桜田町の東には鶴田や鶴里の地名があるからです。また松炬島は日本武尊と宮簀媛命が出会った故地であり、文武天皇にとって重要な場所と思われます。近くの呼続(よびつぎ)は旧東海道に沿った場所となります。


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元桜田町の位置を示すグーグル地図画像。

以上のように文武天皇は東三河から西三河にかけて痕跡や伝承を残していました。それらに高市連黒人の万葉歌や日本武尊の関係地を加えると、天皇の三河国から尾張国へと向かうルートが浮き彫りになってきます。やはり「その52」で青字にて書いた行幸の日程、「11月13日、行至尾張国。」は文武天皇の記事だったのです。

東三河に文武天皇がいたからでしょうか、東三河の神社・寺院で文武天皇(及び持統上皇)の時代に創建或いは社殿が建立されているものが相当数あって、文武天皇の三河行幸(或いは滞在)に関連していそうに思えます。(例えば、鳳来寺、三明寺、砥鹿神社、大岩神明宮、杉森八幡社、豊川進雄神社、野依八幡社、牟呂八幡社、佐脇神社、幡頭神社など)

以上、「続日本紀」と東三河・西三河の伝承を勘案すれば、持統上皇が東三河行幸を決行し、その時点で文武天皇が同地に滞在していたと考えてほぼ間違いなさそうです。「続日本紀」の持統上皇三河国行幸記事に見られる不整合は、持統上皇の動きと文武天皇の動きをミックスしたものとの前提で考えれば、きちんと整合するのです。

           東三河の秦氏 その68 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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酔石亭主

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