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東三河の秦氏 その68 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
12 /01 2013

文武天皇の伝承はまだ他にもあります。鳳来寺と砥鹿神社の創建伝承は文武天皇の病気に関連しますが、これと似たような話が別のお寺にも存在していました。と言うことで、伝説の残る三明寺(所在地:豊川市豊川町波通37)に行ってみます。


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三明寺の位置を示すグーグル地図画像。

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JR豊川駅です。

新しい駅舎で豊川稲荷のある出口とは反対側になります。それにしてもガランとして人っ子一人いない感じ…。

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途中にあった豪邸。ブライダル施設のようでもありますが、確かめてはいません。

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三明寺の入り口。

お堂の手前に鳥居が鎮座しています。お寺なのにちょっと妙な感じですね。左手には三重の塔が。

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三重塔。逆光で見にくいので白黒にしました。なかなか立派な建物です。

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解説板。

お寺は大宝2年(702年)の創建とのこと。持統上皇と文武天皇の行幸時点に創建されている可能性もあります。

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石橋が二つ。太鼓橋が神社への橋で、平橋がお寺への橋と区別しているのでしょうか?

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本堂。

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辨才天とあります。

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解説板。

宮殿が本堂内にあり弁財天を安置しているとのことです。建築様式は神社によく見られる一間社流造とのこと。神仏習合的な痕跡がそのまま残っているようです。

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解説板の宮殿を拡大。

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本堂に向かって左手に鳥居があり、神社が鎮座しています。

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解説板。内容は不鮮明ですが大略以下の通り。

太古の頃、穂の国に倭姫の命あり。稲を作り伊勢神宮に報徳感謝をこひて奉納せられた。  その後、倭姫の命は正一位稲生大明神の位を賜り、三州西島の地に稲荷として祀られ、多くの人々に信仰された。宝暦年間(一七五一~一七六三)、七世鎮山和尚が西島稲荷社から分祀して当山へ鎮座させた。明治時代より三徳稲荷と称し、三つの願いが成就していただけるとして崇敬されています。

倭姫命が出てきました。となると、稲荷として祀られたのは持統上皇となりますし、稲荷は秦氏の伏見稲荷大社と関係してきます。解説板に三州西島の地とありますが、西島は「徐福伝承の謎」で書いた牛久保の目と鼻の先になります。


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西島の位置を示すグーグル地図画像。

解説板を読み替えれば、西島の田で収穫された米も持統上皇に献上され、その記憶が西島稲荷社の創建に繋がったと言うことでしょう。実際には当地の豪族である星野氏が宇迦之御魂神を勧請したことから始まったものと思われます。西島稲荷社は大層な賑わいを見せたそうです。その後社守の平八が豊川閣妙厳寺の社守に転身した結果、人の流れが妙厳寺の稲荷に集中して、豊川稲荷が商売繁盛の神様として信仰を集めるようになったとか。

豊川稲荷に関してWikiには以下のような記述も見られます。

また、俗説であるが、平八狐を祀っているともいわれている。妙厳寺開山の時、平八郎と名乗る翁の姿をした狐がやってきて、寺男として義易によく仕えた。義易が入寂した後は愛用の釜を遺して忽然と姿を消したという。今もこの釜は本殿奥に安置されている。

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三徳稲荷の石柱。

三徳稲荷近くに宝飯の聖泉の石柱がありました。これは文武天皇と関係しそうです。

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石柱。

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石柱の別の面に文字が刻まれています。

文武天皇が御病に悩まされている際 御夜枕元に宝飯の主神妙音知辨広財天女が現れ御病を全快された 天皇はこの主神に感謝報恩の気持ちで三明寺の草創の源となった

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聖泉の跡。水は涸れています。

三明寺に関しては以下Wikipediaより引用します。

寺伝によれば、702年(大宝2年)、文武天皇が三河国に行幸の折、この地で病にかかったが、弁財天の霊験で全快したことから、大和の僧・覚淵に命じて堂宇を建立したのが始まりという。…中略…豊川弁財天、または馬方弁財天と称される弁財天像は、平安時代の三河国司・大江定基が、愛人の力壽姫の死を悼み、力壽姫の等身大の弁財天を自ら刻して奉納したものと伝えられている。弁財天は裸身であり、十二単を着ており、12年に1度、巳年に御衣装替えを行う慣わしがある。現在では、三河七福神の霊場の1つとして紹介され、安産・芸道・福徳・海運の守護神となっている。毎年、1月と8月に開帳される。また、境内にある三徳稲荷は、西島稲荷(同市西島町)の分祀であり、3つの願望が成就するとされている。


多分文武天皇は行幸中にのどが渇いて気分が悪くなり、この泉の水を飲まれて癒されたのでしょう。なお、弁才天信仰は奈良時代から始まっているので、文武天皇が弁財天の霊験で全快したとは考えられず、この地の巫女が水を汲んで天皇に差し出したと考えられます。

いかがでしょう?文武天皇の足跡は持統上皇のそれに匹敵する程ありました。こうして見ると、東三河のありようは持統上皇と文武天皇によって定められたと言っても過言ではなさそうです。「続日本紀」と東三河の伝承を突き合わせれば、持統上皇・文武天皇の両者が時期を同じくして東三河に滞在していたのはほぼ間違いありません。「続日本紀」の三河国行幸記事に見られる不整合は、持統上皇・文武天皇の両者が東三河にいたとの前提で考えれば、綺麗に解消されるのです。

ここまでを纏めてみます。持統上皇は自らを天照大神に擬し、日本神話において最も重要な場面である天照大神の死と再生を現実世界で具現化させるため、東三河に行幸しました。その姿は同時に、天照大神を奉じて各地を流浪した倭姫命とも重なります。藤原京を出発した持統上皇は田原本町秦荘の笠縫邑にまず立ち寄ったのかもしれません。それが元伊勢第一号となりました。

続いて、宇陀や名張など元伊勢となる地を移動しながら、松阪市にある元伊勢の地に入り、円方から東三河に向けて出航。伊勢の行幸で事前調査の済んでいる伊良湖岬辺りに上陸後、死の儀式を執行します。伊良湖岬から再び船に乗り姫島経由田原市に上陸、そこが元伊勢渥美宮となりました。

渥美宮を出た持統上皇は船で御津町の安礼の崎に上陸、出迎えた孫の文武天皇と行在所にて穏やかな時間を過ごしつつ周辺の各地を見て回ります。そして、秦氏の拠点である日色野町菱形において再生の儀式を執行したのです。

持統上皇と文武天皇はその後宮路山に赴きます。そして二見道(御津町広石)で二人は別れ、上皇は元伊勢の地である浜名宮に向かいます。全ての予定を終えた上皇は安礼の崎から船に乗り、往路と同じルートで藤原京に戻ったのです。一方文武天皇は尾張、美濃、伊勢、伊賀の四国への行幸に出発しました。伊賀辺りで上皇と天皇は再会したのかもしれませんね。

以上、持統上皇の東三河行幸で起きたと推定される事柄を、一定の視点から復元・再構成してみました。もちろんこれが事実・史実であると主張するものではなく、様々な伝承や状況証拠を積み重ねた上での推論に過ぎません。自分で読んでみてまだ疑問に感じられる箇所も多々あります。まあ、こんな切り口もあるのかと思っていただければ大成功と言えるでしょう。

            東三河の秦氏 その69 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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酔石亭主

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