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東三河の秦氏 その70 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
12 /03 2013

前回で提示した疑問の答えを「古事記」の「序」から探っていきます。「序第二段古事記撰録の発端」には諸家の持っている帝紀(皇室の記録)や旧辞(神話や伝説、歌物語)に間違いがあり、虚偽も加わっている。そこで偽りを削り、真実を定め、後世に伝えるため、天武天皇が稗田阿礼に「帝皇日継」(ていおうのひつぎ。帝紀)と「先代旧辞」(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよと命じたとあり、これが「古事記」撰録の発端となっています。

「しかし時が移り世が変わり、いまだその事が行えていない」と書かれた文章で、序第二段は終わっています。稗田阿礼の生没年は不明ですが、活動したのは7世紀後半から8世紀初頭とされ持統の時代に重なっています。持統上皇は多分稗田阿礼から話を聞き、旧辞部分すなわち神代の部分に心を惹かれたのだと思います。

神代の部分とは天照大神の岩戸隠れから天孫降臨に至る一連の神話を意味しています。それを心的に追体験し、さらに自分の行いを重ね合わせ、現実の舞台装置において再現し、その全体を記紀神話に固定して後世に伝える。そうした壮大な試みこそが、持統上皇の目指したものだったのではないでしょうか?

上皇は孫への皇位継承の正当化を目論むような、チャチな考えの持ち主ではなかったと思われます。そして彼女の目指す舞台装置として最適であったのが、正しく本論考の中心となる東三河でした。

渥美半島には伊勢と同じ五十鈴川があります。さらに稗田の地名があり、御津町に安礼の崎があって両方を合わせると稗田阿礼になり、稗田阿礼は「古事記」を誦習したとされる人物です。これが持統上皇の隠された暗号であり、彼女の意図を示すものだったのです。

と言うことで、上皇の行幸は岩戸隠れから天孫降臨に至る一連の神話を東三河において心的に追体験し具現化するために実施されたとの想定をベースに、以降の議論を進めていきます。

上皇の構想は実に壮大なものでした。しかしそれを実現するには幾つかの越えるべきハードルがあります。天照大神の岩戸隠れ、すなわち巫女アマテラスが死んで太陽神・天照大神が再生する死と再生ストーリー分に続いて、既に書いた出雲神話が挿入され、その後に天孫降臨となるのです。

うんと大雑把に言えば岩戸隠れ神話に続いてスサノオ、天忍穂耳命、事代主神、建御名方神、大国主神などが登場し、その上で天孫・邇邇芸命が降臨することになります。

持統上皇の東三河行幸の目的は、天照大神の岩戸隠れから天孫降臨に至る一連の神話を舞台装置である東三河において具現化させることでした。だとすれば、文武天皇の痕跡が東三河に多数ある理由も明らかになります。邇邇芸命に擬せられる文武天皇は神話世界における天孫降臨部分を担うため、現実世界である東三河に存在していなければならなかったのです。

しかしです。持統上皇の構想からすれば、登場人物が持統天皇(=天照大神)と文武天皇(=邇邇芸命)だけでは、孫の草壁皇子(=天忍穂耳命)も含む中間部分が飛んでおり、岩戸隠れから天孫降臨に至るまでの神話全体を具現化できません。中間部分に登場する神々や人物が、実際に或いは象徴的な意味で東三河に存在していなければこの問題をクリアできないのです。言い換えれば、それらの人物や神が東三河にいるかどうかの検討作業が必要となってくるのです。

「その64」において持統上皇の東三河における行動の検討を宮路山訪問の前で一旦打ち切りましたが、ようやくこれを再開するタイミングに至ったようです。

と言うことで、話を宮路山行幸に戻し、中間部分に登場する神々や人物の検討を進めます。上皇は御津町にあった行在所を出て宮路山に向かいました。でも、なぜ宮路山なのか?宮路山は古東海道の経路に当たっており、比較的行きやすい場所だった面は確かにあります。でも、それだけではないはず。ここである仮説を立てたいと思います。それは以下のようなものです。

岩戸隠れから天孫降臨までの神話の舞台は、高天ヶ原を中心として展開します。だとすれば、現実世界(東三河)において高天ヶ原に相当する場所の設定が必要となるはずです。上皇は多分、宮路山を現実世界における高天ヶ原に設定したのでしょう。それほど重要な場所である宮路山には、上皇だけでなく文武天皇も同行していたと思われます。

           東三河の秦氏 その71 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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酔石亭主

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