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東三河の秦氏 その71 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
12 /04 2013

それでは、行在所におられる持統上皇に腰を上げてもらい、宮路山へと向かっていただくことにします。


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ルート検討のためのグーグル画像。

上皇一行は行在所を出て-ヒッチコックの映画みたいですが-北北西に進路を取ります。長忌寸奥麻呂が詠んだ引馬野の万葉歌碑のある為当町市木(画像下部の御津支所とある辺り)を過ぎて御津山方面に向かいます。画像上では御津山の北の御津工場とある辺りに御津神社が鎮座しています。最初の立ち寄り場所は多分こちらでしょう。

御津神社を出た上皇は二見道の分岐点に至ります。地図画像で「御津北部小」の「文」とある辺りとなります。「引馬野」の万葉歌はこの時点の情景がベースになっている可能性があります。もちろん上皇は宮路山訪問の意図を隠しています。だからこの万葉歌も「引馬野に にほふ榛原入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに」と、のどかな雰囲気が漂うものとなっているのです。


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ルート検討のためのグーグル画像。

広石を過ぎて新宮山を廻り込み、音羽川に沿って遡り上皇に油を献上した地である御油を通過。その後に杉森八幡社を訪問します。杉森八幡社を出た一行は一旦少しの距離を戻り、宮路山の麓に入って宮道天神社を訪問。その後山頂を目指したものと思われます。杉森八幡社は画像上部の「374」とある辺り。宮道天神社と宮路山は表示あります。(注:このルートは酔石亭主のストーリー上の都合を優先しており、実際の宮路山行幸経路はもちろん不明です)

宮路山に向かう全ルートが行在所のある音羽川沿いである点は注目されます。では、移動経路における重要地点を個別に見ていきます。拡大した地図画像を参照ください。


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まず御津山方面のグーグル画像です。

御津山を廻り込むと、御津神社(鎮座地:豊川市御津町広石祓田 70 )が見えてきます。鎮座地の地名は広石で、万葉歌にある榛原の地となります。さらに二見道の分岐もこの近くとなります。一帯の重要性が見て取れますね。現在の広石交差点は御津北部小の南になります。では、御津神社に行ってみましょう。

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御津神社前の道。

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御津神社の鳥居と石柱。

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解説板。

何と大国主命が御祭神となっていました。岩戸隠れと天孫降臨の中間部分における最も重要な神様が、持統上皇の行在所からさして遠くない場所に鎮座しているとは驚きです。

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解説板の続き。

伝承によると、祭神は、御舳玉・磯宮楫取・船津各大神を従えて船津へ着いたとのことです。船津の所在地は広石交差点の南となります。御舳玉大神は豊川市御津町豊沢石堂野15番地に鎮座する御舳玉(おへたまじんじゃ)神社に祀られています。祭神は住吉大神とのことで、伊勢より船にてお供した神だそうです。

磯宮楫取大神と船津大神は境内摂社として、磯宮神社、船津神社に祀られています。いずれも海神の系統のように思えます。東三河には安曇族の存在も認められますが、住吉大神と安曇族は関係がありそうです。安曇族の手配で大国主命は東三河に来たのでしょうか?

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御津神社拝殿。

一方砥鹿神社の由緒には次のような内容が書かれています。

「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。

この記述から推定すると、大己貴命すなわち大国主命は但馬国から三河国に入り、御津神社に鎮まった後、本宮山に至ったことになります。実際には大国主命の信仰を持つ出雲系の人たちが但馬から三河に移住したのでしょう。(注:大己貴命は国土開拓を行う神で、大国主命は開拓完了後の神と考えられます)

御津神社詳細は玄松子さんのホームページを参照ください。
http://www.genbu.net/data/mikawa/mitu_title.htm

なお資料によっては、大国主命の他に事代主命、建御名方命も御津神社の祭神になっているとのことです。(玄松子さんのホームページを参照)さらに以下のホームページにも3神が祭神とあります。
http://www.ooyasiro-jinjya.com/jinjya/mito/mito.html

その通りなら、中間部分の主要な神様が御津神社で既に揃ったことになります。持統上皇は多分御津神社にて3神を恭順させる儀式を執行したのでしょう。これが神話側における事代主命と建御名方命の服従、大国主命の国譲りとなります。

天照大神が岩戸から出た後、スサノオは地上界に追われ八岐大蛇を倒すなどの活躍を見せます。どういうわけか東三河には、スサノオを祀る神社も実に数多く鎮座しています。いつの創建かと言う問題もありますが、代表的なものでは豊川市の進雄神社でしょうか?こちらの創建は大宝元年(701年)となっています。同社関連のホームページは以下を参照ください。
http://www.ccnet-ai.ne.jp/fujiiya/susanoujinja.html

ここまでで、天孫に敵対する側のメンバーである大国主命、事代主命、建御名方命が持統上皇の宮路山行幸ルート上に出揃い、東三河にはスサノオも多く祀られていると判明しました。出雲神話部分はクリアできたことになります。

続いて広石交差点から北東に進むと新宮山があり、1878年の道路工事中に銅鐸が出土したとのこと。高さ46cm、底部長径24cmの流水文銅鐸だったそうです。ところで、なぜこの場所に新宮山があるのでしょう?新宮とは本宮から分かれた神社を意味します。となると、新宮山は本宮山との対比でそう呼ばれているものと想定されます。


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新宮山の位置を示すグーグル画像。

本宮山麓に鎮座する砥鹿神社の祭神は大己貴命で、御津神社祭神・大国主命と同じ神です。さらに砥鹿神社摂社には事代主命と建御名方命が祀られています。もしかしたら、御津神社は当初新宮山麓に鎮座していたのかもしれません。それを示すと思われる痕跡が御津神社境内にあります。

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境内社・新宮大神、鈴宮大神。

これらを総合すれば、本宮山、新宮山、御津山(御津神社)は切っても切れない関係にあったと考えられます。新宮山は宮路山の尾根が下り平野になる手前の山です。宮路山(高天ヶ原)から天下った天孫・邇邇芸命(=文武天皇)に、新宮山の3神は恭順していたとのストーリーであれば、神話世界が現実世界で再構成された形になります。その意味でも新宮山は重要と思われます。広石や新宮山、御津山の写真など詳細は「その60」を参照ください。

「但馬続風土記」によれば、「大己貴命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。」とのことです。大国主命が出雲大社に封印されているのと全く同様に、東三河においても大己貴命の神霊が本宮山に永く止め置かれて(=封印されて)いたのです。その山が「止所(とが)の地」とされているのは、朝廷に逆らって封じ込められた咎(とが)の地であるからだと思われます。

持統上皇の意図は、東三河において神話世界を心的に追体験し具現化することだったので、出雲神話とは異なり大己貴命(=大国主命)に加えて事代主命、建御名方命も同じ本宮山に封じ込められていることになります。さらに、本来の高天ヶ原(注:あくまで東三河における象徴的な意味でと言うことです)は本宮山であったと考えられます。

持統上皇は東三河の本家高天ヶ原である本宮山に登りたかったのですが、体力的に不可能だったのでやむなく宮路山を高天ヶ原に擬したのではないでしょうか?このため宮路山の北東・鬼門に当たる本宮山を、大己貴命を封じ込める地と設定せざるを得なくなりました。本宮山が本家高天ヶ原である証拠は山頂に残ります。何と、本宮山の山頂には岩戸神社まで鎮座しているのです。(注:本宮山に関しては別途後の回で書く予定です)

             東三河の秦氏 その72 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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酔石亭主

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