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東三河の秦氏 その72 持統上皇東三河行幸の謎


御津神社と新宮山、本宮山の検討から出雲神話の神々は既に登場し、持統上皇の構想における役割を果たしたようです。残る人物は草壁皇子(=天忍穂耳命)で、いずれ登場するのではと期待されます。

さて、様々な歴史が推定される新宮山を廻り込んで、上皇一行は杉森八幡社(鎮座地:豊川市赤坂町西縄手15)に向かいました。


大きな地図で見る
杉森八幡社の位置を示すグーグル地図画像。

杉森八幡社に関してWikipediaには以下のように記載あります。

当社は、天照大神を祀る神明宮であると共に、応神天皇や神功皇后を祀る八幡宮でもある。社歴によると、神明宮は大宝2年(702年)に持統上皇が東国を巡行した際、伊勢神宮領御厨(みくりや)に勧請した。八幡宮は、持統が滞在した頓宮を畏れて勧請した。


頓宮(とんぐう)とは行在所と同じで仮の宮を意味しています。では杉森八幡社に行ってみましょう。

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境内です。巨大な楠が拝殿前にあります。

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楠。木のパワーを感じさせ、樹齢も相当古いと思われます。

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解説板。

夫婦楠と呼ばれる巨樹で推定樹齢は約千年とのこと。何とも凄いですね。神社の由緒もついでに書かれています。

当社は大宝2年(702年)持統上皇が東国御巡幸のとき当地の頓宮におられたとき、伊勢神宮領御厨(みくりや)跡に大神宮・八幡社を勧請遊ばされ、両宮とも神鏡を納められたと伝えられる。

持統上皇はこの地に神鏡を納めたようです。神鏡とは 加美の地に置かれていた八咫鏡のことでしょうか?もちろん、レプリカなのでしょうね。たとえレプリカであっても、これは神の御魂代(神霊の代わりとして祀るもの)なので問題はありません。ところで、拝殿に向かって右手に何やら妙な構造物があります。あれは一体何でしょう?

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木と竹で組んだ構造物と建物。

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近寄るとこんな感じ。

屋根の骨組み部分は竹のみで見事に組まれています。今まで見たことのないものです。

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内部から見た本殿と拝殿。

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解説板。

なるほど。建物が赤坂の舞台で骨組み部分は観客席となるようです。

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ケヤキの巨木。境内の裏手にあります。

では、宮路山の麓に鎮座する宮道天神社に向かいましょう。位置関係は「その71」のグーグル画像を参照ください。旧東海道赤坂宿を通るので、古い建物も散見します。

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大橋屋。安藤広重の浮世絵にも描かれた有名な旅籠です。

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解説板

旧東海道の赤坂郵便局前で山側に折れてのどかな坂道を進みます。

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宮路山。多分右側の山が宮路山と思いますが、確信はありません。

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宮道天神社の鳥居。

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拝殿。

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拝殿。

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扁額。 

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解説板。内容は以下。

御祭神 建貝児王命(日本武尊第三皇子 宮路別族の祖)、大山咋神、草壁皇子命(天武、持統天皇御長子)

抑々當社は天武天皇御宇白鳳年間草壁皇子此地に住居ましまし事より 御代々赤坂の地を頓し給ふ 皇子現宮路山上に一小祠を遣し給ひしが 村民これを保護 長保の頃前記三神を合祀して永久に全村の産土神と崇敬し奉るに至れり 該地は大宝2年10月持統上皇御巡幸の際 此の山を頓宮に充てさせ給ひ霜葉を叡覧し給ひし御遺跡あるを以て宮路山と稱し社號を宮道天神社と敬ひ奉る 而して御鎭座の地たるや宮路山中の殊嶽にして 往昔草壁皇子御住居せし地なるを以て 其字名を嶽ヶ城と稱す 仍て中古より嶽明神とぞ通稱し來りしを明治13年に其の社號を復旧して宮道天神となし大正14年10月9日郷社に昇格す。


長い由緒で読みにくいため必要事項のみを以下のように纏めます。

当社は天武天皇の時代に草壁皇子が居住し、宮路山の山頂に小祠を遺したが、村民がこれを保護して長保の頃(999年から1003年) 3神を合祀した。大宝2年10月持統上皇行幸の際、宮路山を頓宮とし、御遺跡があることから宮路山と称し、社号を宮道天神社として崇敬した。

祭神に建貝児王(たてがいこのおおきみ)がいます。これは日本武尊が東征のおり、皇子の建貝児王をこの地に封ぜられたことによります。建貝児王は宮道別(みやじわけ)の祖となり、その子の宮道宿禰速麿は穂国の県主になりました。後に子孫が建貝児王を祀り宮道天神社の起源となったものです。なお、日本武尊と文武天皇の関係については既に書いています。

しかしこの記事において重要なのは建貝児王ではなく、持統上皇の構想においてまだ登場していなかった人物、すなわち草壁皇子(=天忍穂耳命)です。壬申の乱(672年)の時、草壁皇子が宮路山で守備の陣を構えたとされていますが、年齢が10歳ではとても兵の指揮などできません。ではなぜそんな伝説が存在したのでしょう?

「その69」で書いたように、天孫降臨神話に現実を重ね合わせると、持統天皇(=天照大神)、天皇の子である草壁皇子(=天忍穂耳命)、天皇の孫に当たる文武天皇(=邇邇芸命)となります。岩戸隠れ神話から天孫降臨神話までを東三河において具現化させるため、草壁皇子の存在は宮路山(=高天ヶ原)において不可欠だったから、こうした伝説が創作されたのです。宮路山に登る前段階で、岩戸隠れ神話から天孫降臨神話に至るまでの主要メンバーは全て出揃ったようです。と言うことで、宮路山に行ってみましょう。

            東三河の秦氏 その73 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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