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東三河の秦氏 その74 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
12 /08 2013

前回までで、持統上皇が東三河に行幸した意図が明確となりました。彼女が目指したものは、天照大神の岩戸隠れから天孫降臨に至る一連の神話を、東三河と言う現実の舞台装置において再現し、記紀神話に固定して後世に伝える実に壮大な試みだったのです。そして宮路山が、一連の日本神話の中心に位置する高天ヶ原に相当していました。上皇は体調の不良も顧みず、自らの構想を具現化するため宮路山に登ったのです。

以上で宮路山の位置付けはほぼ完了と思ったのですが、まだ幾つか検討を要する部分が残っています。既にご存知のように草壁皇子は天忍穂耳命に擬せられます。天忍穂耳命は天照大神から天下りを命じられたのに断りました。言い換えれば、天忍穂耳命は降臨せず高天ヶ原に止まったのです。だとすれば、草壁皇子(=天忍穂耳命)は高天ヶ原である宮路山に止まっていなければならないのです。それを証明するために、広石の北西に位置する宮路山南麓の谷戸奥に向かいたいと思います。


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宮路山南麓の谷戸を示すグーグル画像。

東側を音羽川に区切られ、御津山と新宮山に挟まれた谷戸地形が国坂峠まで細長く続いています。この画像を見ると別の似たような地形を思い出します。そう、富士吉田市大明見の谷戸です。ここは、桂川に区切られ二本の尾根に挟まれた谷戸で、谷戸奥には富士高天ヶ原王朝があり徐福も関係しています。詳細は「富士山麓の秦氏 その15」から「その19」までを参照ください。

では広石交差点から谷戸奥に向かいます。すぐに国坂峠手前の熊野神社まで至ってしまいました。

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熊野神社の鳥居。

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熊野神社拝殿。

こんな奥まった場所にまで、熊野信仰が到達しているとは驚きです。秋の例大祭の日のようで、地元の方が集まっていました。

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谷戸の光景。

いかにも谷戸的な地形で酔石亭主の好みの場所です。さて、熊野神社から先はほぼ何もないので、来た道を戻ることになります。そこで下のグーグル画像を参照ください。


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グーグル画像。

画像の右下に「徳寒」(とくさぶ?)の地名があります。「その19」、「その20」にて書いた常左府(=常寒、とこさぶ)と同じ地名と考えられ、常寒は徐福の孫・古座侍郎一行が定着した地となります。

徳寒は古座侍郎一行の一部メンバーがやってきた場所なのかもしれません。大明見は徐福一行の渡来と関係のある地で、東三河も徐福の孫・古座侍郎が渡来した場所です。そして大明見と広石奥の谷戸は地形的にも相似しています。大明見のある富士山麓と東三河には秦氏の存在も認められます。地形の共通性と徐福伝承の存在、両者に共通する秦氏。そうした関連性・共通性が徳寒の地名成立の基礎となったような気がします。

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徳寒付近の写真。

さて、グーグル画像を見ると徳寒のほぼ北側の宮路山麓に白山神社が鎮座しています。ちょうど稲場の地名の場所から山道が伸びているので行ってみましょう。

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登り口の写真。ここから歩きます。

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鳥居と白山神社の石柱。

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白山神社拝殿。

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本殿。

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拝殿に向かって左側に五輪塔(ごりんとう)があります。

これは草壁皇子の墓とされているものです。宮路山の中腹に近い場所になぜ草壁皇子のお墓があるのでしょう?

(注:草壁皇子の墓とされるものは東三河とは別の場所にあります。詳細は以下のホームページを参照ください)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/12.29nara3.htm

常識的に見て、宮路山で草壁皇子が祀られる理由はありません。お墓に至っては論外と言えるでしょう。では、なぜあり得ないはずのものがここにあるのか?理由は簡単です。既にご理解いただいていると思いますが、それらはここに存在しなければならなかったのです。

持統上皇は岩戸隠れから天孫降臨に至るまでの神話全体を現実世界で具現化する目的で、東三河に行幸しました。その具現化のためには持統天皇(=天照大神)、その子・草壁皇子(=天忍穂耳命)、持統の孫に当たる文武天皇(=邇邇芸命)が現実世界の舞台装置である東三河に-その中でも特に重要な宮路山(高天ヶ原)に-存在する必要があったのです。よって宮路山には、現実とは別に草壁皇子を祀る神社が鎮座し、お墓まであるのです。

既に書いたように、天孫降臨において天忍穂耳命は天照大神の指示に従わず天下りしませんでした。言い換えれば、高天ヶ原に留まったままだったのです。だから天忍穂耳命に擬せられる草壁皇子は高天ヶ原=宮路山に留まり、本物かどうかは別として彼のものとされる墓が存在する必要があったのです。

ここまで考えると、天忍穂耳命も宮路山に留まっているのかもしれません。来た道をさらに戻ります。


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グーグル画像。

画像左下の岩本の先から山道が伸び、八柱神社や円蔵寺に通じています。何かあるかもしれないので早速行ってみましょう。

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八柱神社の鳥居。

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次の鳥居。画像の右側に何か石積みのようなものが…。

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石室(祠)でした。

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中を拝見すると、こんなところに役行者様が居られます。

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右手に進むと円蔵寺でした。本堂は朽ちて廃寺となっているようです。

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元に戻り古びた石段を登ります。

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山の中にしては立派な社殿です。

こちらも秋の例大祭のようです。なお、神社までもう一本の道から車で上がれますが、地元の方の通行の邪魔になるので、歩いて登るべきと思います。白山神社も同様に歩くべきでしょう。

さて、八柱神社(鎮座地:豊川市御津町金野西沢46番地)の祭神は天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、田心姫命、市杵嶋姫命、湍津姫命になります。やはり天忍穂耳命も宮路山にいたのです。神社の由緒は以下の通り。

社蔵の棟札に万冶元年(1658)12月、奉新造八王子一宇、祢宜大桑権兵衛とあり。素戔鳴命の五男三女神を祀り八王子大権現と称したが、明治制度改めにより八柱神社と改称し、明治8年村社に列す。大正12年9月15日、字小根沢神社を境内社に合祀する。大正12年10月2日、供進指定杜となる。 

神社の創建は1658年との説が強いようですが、祭神からしてずっと古いもののように思われます。宮路山南麓の西に位置する白山神社に現実側の草壁皇子の墓があり、東に位置する八柱神社に神話側の天忍穂耳命(草壁皇子に相当する)が祀られている。この配置が偶然とはとても思えません。間違いなく意図的に設定されているはずです。

宮路山において草壁皇子は宮道天神社にて祀られ、南麓に鎮座する白山神社に葬られています。(あくまで神話世界、心的世界を具現化する意味でのお墓です)草壁皇子が宮路山中に祀られ葬られているのは、神話の記述に沿って宮路山(=高天ヶ原)から天下りしていないことを意味しているのです。でも、誰がここに墓を建てたのでしょう?次回で検討してみたいと思います。

岩本から少し広石寄りには12基もの古墳群があるとのことです。

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解説板。 

6世紀から7世紀にかけての古墳なので持統上皇の時代より少し前となります。いずれにしても、一帯は古代人が好むような場所だったのです。

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石積みの一部でしょうか?

            東三河の秦氏 その75 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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酔石亭主

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