FC2ブログ

東三河の秦氏 その77 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
12 /11 2013

今回は砥鹿神社(とがじんじゃ)を探索します。石座神社を出て豊川沿いを下ると、豊川市一宮町西垣内2に砥鹿神社・里宮が鎮座しています。奥宮は本宮山山頂付近に鎮座しており、鎮座地は豊川市上長山町本宮下4。まずは里宮を見て、次に奥宮を訪問することとします。砥鹿神社の御祭神は大己貴命。三河国一宮として、三河における最も格式の高い神社となりますが、どのような神社なのかわかりにくい部分もあります。


大きな地図で見る
神社の位置を示すグーグル画像。神域の広大さが見て取れます。

既に書いたように同社の由緒によると、文武天皇大宝年中、天皇が御病気の時、草鹿砥公宣卿(社家草鹿砥氏の祖)が参河國設楽郡煙巌山の勝岳(利修)仙人のもとに勅使として派遣されます。公宣卿が道に迷い、本宮山に踏み入った時、砥鹿大明神が老翁の姿で出現し、彼を助けます。文武天皇はそれを聞いて喜び、天皇の勅願にて、本宮山麓に宮居を造立することとなりました。その時、老翁が清流に衣を流し、流れ着いた地に社殿を建てたのが現在の砥鹿神社とされています。

駐車スペースはたっぷりありますので、車を停め西側の鳥居を潜って境内に入ります。

境内図
境内図。

143_convert_20131210130528.jpg
鳥居。

144_convert_20131210130556.jpg
解説板。

「当社の由緒は詳らかではない。当社神名が国史に明記されるのは、文徳実録巻二、嘉祥三(八五〇)年秋七月の条からで、従五位下の神階に叙せられたとある。」とのことです。前回で見てきた石座神社は、851年に従五位下の神階に叙せられたのですから、年代も位もほぼ同じとなり、ほとんど誰も知らない石座神社と同格であったと理解されます。

145_convert_20131210130623.jpg
西側神門。

門を潜ると拝殿が見えます。三河えびす社とあり、二宮社が事代主命、三宮社が建御方命とあります。

146_convert_20131211192236.jpg
三河えびす社。

いずれも出雲系の神様で、天孫降臨に先立ち天孫に服従しています。建御方命は石座神社でも祀られていました。

154_convert_20131210130652.jpg
真打ちの砥鹿神社拝殿です。さすがに広大な神域を誇っています。

149_convert_20131210130721.jpg
拝殿に接近します。

150_convert_20131210130745.jpg
もっと接近。

153_convert_20131210130814.jpg
表神門です。本来ならこちらから境内に入るべきです。

155_convert_20131210130839.jpg
末社・八束穂神社です。

祭神は天穂日命。天穂日命は葦原中国平定の条で、石座神社に祀られる天稚彦命の前に地上界に遣わされた神ですが、大国主神に媚び従って3年経過しても復命しませんでした。困った高天ヶ原の神々は次に天稚彦命を派遣して…、となるのです。

天穂日命は出雲大社にて大国主大神を祭祀する出雲臣族の祖となります。名前に穂が入っているのは、穂の国と関係するのでしょうか?

156_convert_20131210130916.jpg
末社・荒羽々気神社です。

157_convert_20131210130936.jpg
解説板。

祭神は大己貴命荒魂とのことです。石座神社に続いてここでもアラハバキが祀られていました。

石座神社、砥鹿神社を続けて見ると、天孫降臨に関係する神々が数多く登場しているように思えてなりません。両神社は天孫降臨の舞台装置のようにも感じられますが、本宮山が本家高天ヶ原に当たっていると考えれば、それも当然の話です。

既に見てきた各神社に石座神社や砥鹿神社を加えると、岩戸隠れから天孫降臨神話に関連して登場する神々の数がさらに増えてきます。東三河において現実の舞台装置が整った以上、邇邇芸命である文武天皇も出現せざるを得なくなり、東三河に天皇の痕跡が数多く残ったのです。

やはり持統上皇は、岩戸隠れから天孫降臨に至るまでの筋書きを、東三河を舞台装置として具現化する意図があり、そのために死の直前にもかかわらず行幸したのです。またそうした意図を史書に書く訳にはいかず、「続日本紀」には東三河行幸の内容が何もないと言う不自然な形となったのです。

           東三河の秦氏 その78 持統上皇東三河行幸の謎に続く
スポンサーサイト



酔石亭主

FC2ブログへようこそ!