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東三河の秦氏 その78 持統上皇東三河行幸の謎


前回で砥鹿神社に関し、「三河国一宮として、三河における最も格式の高い神社となりますが、どのような神社なのかわかりにくい部分もあります。」と書きました。けれども、三河えびす社、御本社、八束穂神社、荒羽々気神社などを見てきた中では、どうわかりにくいのか明瞭でないまま終わっています。

ではどこに問題があるのでしょう?「その65」にて砥鹿神社の縁起を書いていますが、縁起に登場するのは砥鹿大菩薩(=砥鹿大神)であり、大己貴命ではありません。

砥鹿神社の祭神は、常識的に考えて縁起に出てくる砥鹿大神のはずなのに、なぜ大己貴命となっているのでしょう?ここが理解し難くわかりにくい部分なのです。砥鹿神社の深源には上記のような奥深い謎があり、答えは神社の境内を幾ら探索しても出てきません。ひょっとしたら、答えは神社の外にあるのかも……。

と言うことで、今回は砥鹿神社の深源に迫ってみたいと思います。最も古いと想定されるのは、縄文時代に遡ると思われる荒羽々気神社です。里宮に鎮座する荒羽々気社は当初祠宇など存在せず、神木を拝していたとのことで、弘化4年(1847年)に内藤彦兵衛経倫により始めて社殿が造営されました。本宮山の荒羽々気神社も同様に背後の磐座を拝していたものと思われます。いずれにしても、この時代に関しての検討は不可能です。

神社の祭神・大己貴命と神社の縁起に登場する砥鹿大神を比較した場合、砥鹿大神は文武天皇との関係で出てくるため、大己貴命の方がより古い神と思われます。言い換えれば、砥鹿神社の深源には大己貴命(旧)と砥鹿大神(新)の二つの流れがあることになります。従って、それぞれの視点から見ていくこととしましょう。まずは大己貴命から……。

御津神社に関連して「その71」で以下のように書いています。

伝承によると、祭神(大国主命=大己貴命)は、御舳玉・磯宮楫取・船津各大神を従えて船津へ着いたとのことです。船津の所在地は広石交差点の南となります。御舳玉大神は豊川市御津町豊沢石堂野15番地に鎮座する御舳玉(おへたまじんじゃ)神社に祀られています。祭神は住吉大神とのことで、伊勢より船にてお供した神だそうです。…中略…

一方砥鹿神社の由緒には次のような内容が書かれています。

「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。

この記述から推定すると、大己貴命すなわち大国主命は但馬国から三河国に入り、御津神社に鎮まった後、本宮山に至ったことになります。


以上から、御津神社の祭神・大国主命は伊勢から御舳玉大神(=住吉大神)のお供で御津に上陸し、東三河を移動した末に本宮山に留まったと理解されます。よって大国主命の御津町上陸後の動きを知るには、お伴をした住吉大神を探る必要があるのです。この住吉大神とは、当然のことながら住吉大神を奉斎する一族を意味しています。そのような視点から砥鹿神社を検討できないでしょうか?

とは言っても、砥鹿神社本体に手掛かりはありません。境外摂社や末社の中から見ていく他に方法はないでしょう。そこで境外摂社・末社を調べてみます。神社ホームページを見ると境外末社に津守神社(つもりじんじゃ)があり、祭神は田裳見宿彌(たもみのすくね)です。他には饌川水神社(おものがわじんじゃ)があって祭神は罔象女命(みずはのめのみこと)になります。ホームページは以下を参照。
http://www.togajinja.or.jp/satomiya_sessya.html

「日本書紀」によれば、神功皇后の新羅征伐に際して神表筒男・中筒男・底筒男の3神(住吉大神)が神功皇后に「私の荒魂を穴門の山田邑に祭れ」とのたまい、穴門直の祖践立・津守連の田裳見宿禰が「その地を必ず定め奉るべし」と奏上しました。この功により田裳見宿禰の子・豊吾田が津守連を賜り、津守連の祖となっています。津守氏はWikiによれば、「住吉大社(大阪府大阪市住吉区)の歴代宮司の一族で、古代以来の連綿とした系譜を持つ氏族である。」とのことです。

御津神社摂社の御舳玉大神(=住吉大神、実際には津守氏)は大国主命のお伴をして御津湊に上陸しました。そして津守神社は、住吉大社歴代宮司の祖である田裳見宿彌を祀る砥鹿神社の末社となります。どんぴしゃりで繋がっていきますね。御津神社の大国主命(=出雲族)にお供したのは住吉大神(=住吉大社宮司の津守氏)であり、津守氏が砥鹿神社のすぐ近くに津守神社を創建したのです。


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津守神社の位置を示すグーグル画像。

津守神社は砥鹿神社の北東約1kmに鎮座しています。神域が船のような形になっているのは偶然でしょうか? 御津神社境内には舟形に積んだ石組があり、関連性が想定されます。写真は玄松子さんの以下のホームページを参照ください。
http://www.genbu.net/data/mikawa/mitu_title.htm

津守神社の位置を示すグーグル画像の下端の少し下に砥鹿神社があります。津守神社の写真に関しては以下を参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/kanezane2/24659904.html

津守神社は国内神名帳大明神19所の第7位に当たり、菟足神社や御津神社よりも上位に記されています。太田亮氏はそのような高位の神社が砥鹿神社末社に過ぎないのは訝しいとして、海岸の御津郷に鎮座されたものではないか、としています。酔石亭主もその点は賛同しますが、津守氏が大国主命(出雲族)に随伴し御津に上陸した後、両者とも順次内陸部に移動していったと考えています。ではどのようなルートで移動したのでしょう?

津守神社の鎮座地は豊川市一宮町野添。これがヒントになりそうに思えます。すなわち野添の地名を拾っていけば、移動ルートを確定できるはずです。豊川市内には野添の地名が幾つかあるので、海岸から内陸に向かう順に書いていきます。

1御津町野添、2御津町上佐脇野添、3為当町野添、4三蔵子町野添、5大崎町野添、6一宮町野添、7上長山町野添。

正確な位置はグーグル画像で各自検索・参照してください。上記は四つのグループに分けられると思います。1から3は御津神社や豊川市御津町豊沢石堂野15番地に鎮座する御舳玉(おへたまじんじゃ)神社に関連する位置にあり、持統上皇の移動経路ともある程度重複しそうに思えます。1の御津町野添など、上皇関連地名の膳田や加美に接しています。

これらの場所を順次巡った出雲族と津守氏一行は新宮山麓に祠を建て、それが上皇の時代になって新宮山と御津山に挟まれた谷戸内の御津神社に押し込められたのかもしれません。

4と5の三蔵子町野添、大崎町野添は本野原(穂ノ原)近くに位置します。かなり砥鹿神社に近づいてきました。大崎町野添の北に位置する豊川市大崎町門には住吉神社が鎮座しています。


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住吉神社の位置を示すグーグル地図画像。

住吉神社の祭神は中筒男命(ナカツツノオノミコト)で神名帳の「正三位 津守大明神 坐宝飯郡」は、この社ともされています。住吉神社は津守連が移動中に創建したものと考えられ、祭神は津守大明神(=田裳見宿彌)で津守神社と同じになると推定されます。住吉神社の存在とその祭神などから、野添の地名と津守氏の移動経路の連動性が一層明確になりました。

そして6の一宮町野添が現在の津守神社鎮座地となります。7の上長山町野添は正しく本宮山奥宮(豊川市上長山町本宮下4)への参拝登山口手前に当たっています。住吉大神(=津守氏)は多分本宮山の麓まで大国主命(=大己貴命=出雲族)のお供をしたのでしょう。


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上長山町野添の位置を示すグーグル画像。

ここまでの検討から砥鹿神社祭神である大己貴命(=大国主命)の移動経路が明らかとなりました。しかしです。津守神社の祭神は田裳見宿禰であり、大己貴命ではありません。では、大己貴命は現在の砥鹿神社鎮座地にそのまま鎮まったのでしょうか?

調べたところ、砥鹿神社の東北数町のところに「砥鹿大明神往古御鎮座舊跡」なる明治5年建立の石碑が建っているとのことです。津守神社からは南に約二町(約220m)の場所になりそうです。さらに、石碑裏面には石碑の東南約二町の崖下に饌川水神の井戸があると記されています。ここは現在津守神社境内に鎮座する饌川水神社(おものがわじんじゃ)の旧社地となります。

砥鹿神社から津守神社の少し手前に至る崖線の東側の沖積層平野部は「欠下」の地名となっています。崖下が欠下を意味するのかよくわかりません。饌川水神社旧社地を石碑の東南約二町として位置関係を以下に示します。

020_convert_20131212112934.jpg
グーグル画像。

画像下部に砥鹿神社が鎮座し、上部に津守神社が鎮座しています。両神社を繋ぐような緑のラインが崖線となります。崖線の西側(台地)の大きな赤丸が砥鹿神社旧社地で崖線の東側の小さな赤丸が饌川水神社の推定旧社地となります。(注:正確性は保証できないのでおおよそのイメージとご理解ください)

驚いたことに、饌川水神社旧社地こそが砥鹿大神の流した御衣が着いたところになります。そして里人がこれを拾い、崖上に宮居を設けて奉安したのが砥鹿神社旧社地となるのです。

大己貴命は住吉大神と共に御津湊に上陸し、野添の地を移動しながら津守神社付近に至りました。一方、草鹿砥公宣卿が道に迷い本宮山に踏み入った時、老翁の姿で現れ、公宣卿を助けたのが砥鹿大神で、酔石亭主は砥鹿大神を秦氏の老翁と推定しました。砥鹿大神が秦氏なら、菟上足尼命 が関係する柏木濱すなわち然菅(志香須賀)の渡し付近に上陸し、豊川を遡って饌川水神社旧社地に至ったのです。

ここにおいて大己貴命に砥鹿大神が出会い、社名は砥鹿大神の砥鹿を取り、祭神は大己貴命となって砥鹿神社の創建に繋がりました。名は砥鹿大神、実は大己貴命と言ったところでしょうか?当初、砥鹿神社における大己貴命と砥鹿大神の関係がわからず不可解に思っていたのですが、以上のように考えればこの謎は解けたことになります。但し、上記した砥鹿神社創建の前史部分は草鹿砥公宣卿の時代よりかなり早いのではないかと思われます。

では砥鹿神社宮司である草鹿砥氏に関してはどう考えるべきなのでしょう?まず大己貴命が住吉大神のお伴で砥鹿神社旧社地に至り鎮まります。そこへ、秦氏長老である砥鹿大神が豊川を遡り饌川水神社旧社地付近に上陸。砥鹿大神は上長山町野添で住吉大神からバトンタッチされ大己貴命を本宮山に案内したと思われます。

砥鹿神社一帯の崖線下は豊川市豊津町で、ここにはかつて八名郡日下部村があり日下部氏の居住地だったと思われます。(注:室町時代の洪水の影響で豊川の流路は変わっているため、豊川の左岸、右岸のどこに日下部氏の居住地があったかはわかりません。「三河国二葉松」によれば津守神社の東、豊川市豊津町神ノ木に日下部城があったとのことです。築城時期等詳細は不明です)

いずれにしても、この地に入植した日下部氏(草壁皇子の養育氏族)は大己貴命と砥鹿大神の存在を知り、草壁皇子の子である文武天皇が事実関係は別として、持統上皇の意向によりこの地に存在しなければならないことを知ります。

そこで、上皇の意を受けた日下部氏の一人が、自らを砥鹿大神と文武天皇に関連付ける伝承を創作し、名前も日下部から草鹿砥に改姓。この地の開拓者・大己貴命を祀る砥鹿神社を創建し、自分が宮司に収まったのです。以上が砥鹿神社の創建に関する酔石亭主の復元・再構成したストーリーとなります。砥鹿神社の創建には、大己貴命(出雲族)、住吉大神(津守氏)、砥鹿大神(秦氏)、草鹿砥氏(日下部氏)、持統上皇、文武天皇など、実に多くのメンバーが関与していたと理解されます。

砥鹿神社の歴史探求はこれで終了とし、次回は本宮山と奥宮を見ていきます。

            東三河の秦氏 その79 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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