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東三河の秦氏 その80 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
12 /15 2013

本宮山奥宮に行く前に補足したい事項を書きます。酔石亭主は、持統上皇の東三河行幸を岩戸隠れから天孫降臨までの日本神話を現実の舞台である東三河において具現化しようとしたもの、と考えています。ただ書いた内容を読み返してみると、出雲神話部分の論証が不十分なままとなっていました。

単に大国主命(=大己貴命)を祀る神社が東三河に存在するだけで、出雲神話部分をクリアできたとはとても言い切れないのです。そこで出雲神話部分に関して、再検討し以下のように補足説明します。

まず気になるのが、持統天皇の伊勢行幸です。伊勢行幸は「その51」においても触れていますので参照ください。持統天皇の6年(692年)、天皇は伊勢の行幸を決断するのですが、中納言三輪高市麻呂は農事の妨げとなるので行幸を中止するよう上奏します。再度の上奏にもかかわらず持統天皇の決意は固く、伊勢行幸は決行されました。高市麻呂は中納言を辞職したとされます。なぜ、高市麻呂は伊勢行幸に反対し、持統天皇は決行したのでしょう?もちろん農事の妨げなどではないはずで、行幸の背後にある理由を探ってみたいと思います。

三輪高市麻呂は名前の通り三輪氏となります。三輪氏(大神氏、大三輪氏)は大神神社の祭神・大物主神を祭祀する氏族です。大物主神の子・大田田根子は三輪君などの祖であるとされ、作者不詳の能「三輪」には、「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更、なんと、いわくら(磐座・言わくら)や」と語られています。これは三輪の神が伊勢の神と同格であることを意味し、三輪の神の神威の高さが窺われます。

大物主の鎮座に関し、大神神社のホームページには以下のように記載されています。

大己貴神(おおなむちのかみ)【大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ】が、自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)【詳しくは (やまとのおおものぬしくしみか たまのみこと)】の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。

大己貴神の幸魂・奇魂が三輪山に鎮まったいきさつは記紀に記載ありますが、以下の大神神社のホームページのご由緒とご祭神を参照ください。
http://www.oomiwa.or.jp/frame/f02.html

纏めれば、大己貴命(=大国主命)の幸魂・奇魂が大物主神で三輪山に祀られており、奉斎しているのが大田田根子(大物主神の子)の後裔である三輪氏となります。そして記紀などを読めば朝廷は大物主神を最も重視していたと理解されます。

例えば、神武天皇の后である姫蹈鞴五十鈴姫命は大三輪神(大物主神)の子です。「日本書紀」崇神天皇6年の条にも大物主神関連記事があります。前年に疫病がはやり災いが押し寄せます。当時天照大神と倭大国魂の二神は宮中に祀られていましたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにしました。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑で祀ります。倭大国魂は渟名城入姫命に預けたのですが、姫の体が弱り祀ることができません。災いはさらに猛威を振るいます。その後、大物主神が天皇の夢の中に現れ、「我が子の大田田根子命に我を祀らせれば天下は平らぐ」と告げたため、そのお告げに従うとようやく天下が平穏になりました。(注:崇神天皇の部分は長いので、はしょって書いています。正確には記紀を参照ください)

「筑前国風土記」(逸文)には神功皇后が新羅を討とうとしたが、兵が逃げたので理由を占うと大三輪の神(大物主神)が祟っているとわかり、この神の社を建てて新羅を平らげたとあります。これらの例からしても、皇室にとっての大三輪神の重要性が理解されます。

さらに、美和郷や大神郷、美和神社など三輪氏に関連する地名や神社は、東国方面では常陸・上野・下野・越後まで広がりを見せ、倭王の東国支配を信仰の側面から支援・擁護していたと思われます。

皇室の神をも凌ぐ神威を持つ大三輪神の存在は、国家の骨格が形成されつつあった天武・持統朝の時代に入ると、逆に疎ましさが増してきたのではないかと思われます。律令国家の建設を推し進めようとした持統天皇は、伊勢の大神を天照大神に転換させ、皇祖神と位置付け、全ての神の上位に置こうとしたのです。大和では依然として大三輪神の神威が強すぎて、天照大神を祀るのは困難だったことも、伊勢で祀ることにした理由の一つだったのでしょう。

律令以前において大三輪神を仰ぎ奉った倭王たち。そのありようを断ち切り、律令体制と神祇体制の両面で国家の建設を推し進めようとした持統天皇。この間には大きな断絶があります。そして持統天皇の伊勢行幸は、皇祖神・天照大神の創出と伊勢神宮の造営を目的としたものだったと推定されます。これは高市麻呂にとって自らの立場の喪失を意味しており、事態を憂慮した彼は職を賭してまでも諫言を繰り返したのですが、天皇の意志を翻すことは不可能でした。

持統天皇の伊勢行幸は、国家建設の両輪となる律令体制と神祇体制のうち、神祇体制の確立を図るため絶対に不可欠でした。だからどんなに高市麻呂が諫めても受け入れるなどあり得なかったのです。一方高市麻呂にとっては、倭王に仰ぎ奉られていた自分たちの神の地位が天照大神の下の置かれることになり、見過ごすことはできなかったのです。高市麻呂と持統天皇の伊勢行幸を巡るやり取りは、旧体制と新体制のせめぎ合いと言ってもいいでしょう。

記紀の出雲神話に見られる天照大神と大国主神の国譲り。自らを天照大神に擬した持統天皇と高市麻呂。天照大神は大国主神に無理やり国を譲らせて、自分の孫に当たる天孫・邇邇芸命を降臨させました。持統天皇は大三輪神を祭祀する高市麻呂を辞職に追い込み、大三輪神を一氏族神の地位に落したうえで、孫の軽皇子(後の文武天皇)を即位させました。それぞれの関係が相似形になっていると思えませんか?

そして大宝元年(701年)になって、大宝律令が制定・施行されました。この時点で日本の律令制が最終的に確立されたのです。高市麻呂がいかにあがこうとも、この流れを変えることはできません。大三輪神はそれでもなお、大和の地元民から崇敬され、日本各地に分祀された大三輪神は地域の民の信仰を集めていたと思われます。

翌大宝2年(702年)持統上皇は東三河に行幸します。上皇の立場からすると、地域の民の崇敬も受けている大三輪神を、地域においても神社の中に押し込めたと強くアピールする必要があったのでしょう。よって御津の安礼の崎に上陸した上皇は宮路山に登る前に、大国主命を御津神社に封じ込めました。東三河行幸における出雲神話の具現化はこのようにして完成されたと思われます。

封じ込め作業は持統上皇が自ら手を下したのでしょうか?出雲神話で高天ヶ原にいる天照大神が建御雷神などに命じたのと同様、上皇が直接手を下すことはありません。では誰に命じたのか…?

そう、持統上皇は職を辞した高市麻呂に命じたのです。残酷な仕打ちですが、摩擦を最小限に抑えるのに、これ以上の適任者はいないはず。上皇は出雲系の神々を自ら武装解除させたようなものですね。もちろん高市麻呂の名前は持統上皇の行幸関連で出てきません。しかしです。似たような名前の人物が頭に浮かんできませんか?そう、高市連黒人です。彼の歌は以下のようなものでした。

いづくにか舟泊てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚なし小舟
右一首高市連黒人

一体何処に舟泊まりしているのだろう、安礼の崎を漕ぎ廻って行った、あの棚なし小舟は。

この歌に関し、「その58」で「波に飲み込まれそうな小舟が安礼の崎を漕ぎ廻って視界から消えることで、作者の不安感が高まります。それが、自分自身の旅に対する不安を誘発し、情景と作者の情感がうまく重なり合った歌になっています。」と書いています。高市麻呂にとっての棚なし小舟は、自分自身と自分の奉じる神の行く末に対する不安を象徴していたのです。

役割を終えた高市麻呂(=高市連黒人)は、持統上皇からこれ以上同行する必要はないと言われたのでしょう。よって、古代における古東海道と二見道の分岐点で持統上皇と文武天皇が別れた際、彼は文武天皇と同行したのです。この部分は「その53」にて以下のように書いています。

持統上皇に同行した高市連黒人・羇旅(きりょ)の歌八首の一つ(巻三・276)です。(注:万葉集巻三高市連黒人・羇旅の歌八首のうち、270、271、272、276の4首及び巻一 57~61の5首は東三河行幸関連とされるので今後も参照します)

妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
あなたも私も一つだからでしょうか。三河の二見の道から別れることができません。

三河の二見の道ゆ別れなば我が背も我れもひとりかも行かむ (一本に云く、妻の返歌?)
三河の二見の道で別れたなら、夫も私も一人で旅することに致しましょう。

この歌は明らかに古東海道と二見道の分岐点で読まれたと考えられます。高市黒人は二見道の分岐点で別れ難いとうじうじしているのに、妻は道が別れているんだから、あなたも私も別々の道を一人行きましょう、ときっぱり答えています。なぜ二人は別れなければならなかったのか?

理由は行幸の列が文武天皇(高市黒人が持統上皇と別れて同行)と持統上皇(妻が同行)に分かれ、持統上皇が本坂峠を越えて遠江国の浜名神戸の地に向かい、文武天皇は尾張国に向かったから、となります。


高市連黒人=三輪高市麻呂であれば、上記のごとく今まで書いた内容がさらに筋の通るものとなりそうです。

なお、大己貴命、大国主命、大物主神、大三輪神は一応同一神として扱っていますが、実際には異なる側面もあると思われます。この辺は非常にややこしいのでいずれ別途考えてみたいと思います。以上で、出雲神話部分の補足は終わりです。

             東三河の秦氏 その81 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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酔石亭主

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