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東三河の秦氏 その83 持統上皇東三河行幸の謎


前回で神話側と現実側を架橋する中継ぎ側が存在するのではないかと書いています。例えば、天孫降臨神話に登場する天忍穂耳尊とこれに対応する現実側の草壁皇子の間には、ほとんど無限の時代差があることになります。持統天皇と天照大神に関しても、太陽神である天照大神には太陽を祀る巫女アマテラスの段階があり、巫女アマテラスは卑弥呼のイメージが投影されています。よって、卑弥呼と持統天皇との間には約450年の時代的隔たりがあることになります。

まあ、天忍穂耳尊と草壁皇子の時代差も無限ではなく、卑弥呼と持統天皇の時代差にほぼ等しいと考えるべきかもしれません。こうした隙間を埋めるため、神話側と現実側の間に中継ぎ側が存在していると考えられるのです。

中継ぎ側とは、神話側と現実側の間にいて、それなしには現実側が成り立たないような人物や氏族を意味します。言い換えれば、現実側をより確かなものとさせる人物となるのでしょう。この問題を追っていくため、草壁皇子(現実側だが、東三河において実在するか不明確)の存在を確かなものとさせる中継ぎ側の人物を検討します。

酔石亭主が時々参考にする「日本の神々」(白水社)の東海編に砥鹿神社があり、以下の内容が記されています。

社伝によると、当社の世襲神主家草鹿砥氏は穂別命の後裔であるという。この一族は穂別命と同族の日下部連の後裔と考えられており、当社は穂国造が奉祭したものと推定されている。

この穂別命とは誰でしょう?「古事記」には三川の穂別の祖である朝廷別王の名前があり、朝廷別王(或いはこの人物の後裔)が穂別命なのでしょう。「別」とは皇族で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指していることからも、穂別命と朝廷別王は同一人物の可能性が高いと考えられます。

現実側の草壁皇子に対応する神話側は天忍穂耳尊。草鹿砥氏は三川の穂別の祖である穂別命(=朝廷別王)の後裔。草鹿砥氏は日下部氏で日下部氏は草壁皇子の養育氏族。草鹿砥氏は病快癒で文武天皇とも関係がある。こう書けば、朝廷別王の後裔である草鹿砥氏を抜きにして草壁皇子も文武天皇も東三河に存在できないことになります。以上から、神話側の天忍穂耳尊と現実側の草壁皇子を架橋する中継ぎ側として朝廷別王の存在が浮上してきました。朝廷別王を系図的に書くと以下のようになります。

第9代・開化天皇―彦坐王―丹波道主命―朝廷別王(三川穂別の祖)

ついでに日下部氏も系図的に書いてみます。

開化天皇―彦坐王―狭穂彦王(日下部連の祖)

以前にもこの系図は書いていますが、朝廷別王(三川穂別の祖)と狭穂彦王(日下部連の祖)の両者は同じ流れに収まっています。だから「日本の神々」には「当社の世襲神主家草鹿砥氏は穂別命の後裔であるという。この一族は穂別命と同族の日下部連の後裔と考えられており」と両建てで書かれているのです。

やはり朝廷別王は、東三河において実在を疑われる草壁皇子が存在していると思わせる中継ぎ側の役割を振られていると見ていいでしょう。さて、草鹿砥氏は既にご存知のように砥鹿神社の世襲宮司です。そして「三河國一宮砥鹿神社誌」によれば、朝廷別王も砥鹿神社の祭神となっています。朝廷別王と穂別命が同一人物であるとここからも理解されますね。

砥鹿神社に関連して気になる神社があります。蒲郡市豊岡町下久貝17に鎮座する砥神(とかみ)神社です。と言うことで、この神社を見ていきましょう。


大きな地図で見る
神社の位置を示すグーグル画像。画像を拡大すれば東に砥神山が出てきます。

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砥神山。いかにも神体山のような山容で三河富士とも呼ばれているようです。

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鳥居。

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社名を刻んだ石柱。

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社殿。

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扁額。

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社口大明神の石碑。かなり大きいです。

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神木のシイ。

扁額脇の祭神を記した板に創始は延喜2年(902年)とありますが、実際にはもっと古いと思われます。祭神は伊邪那岐(イザナギ)命、伊邪那美(イザナミ)命、木花咲耶姫命となっています。かつては砥神神社と多賀神社があって、後に合祀されたことから、多賀大社の祭神伊邪那岐命と伊邪那美命が祀られているようです。

砥鹿神社の「とが」と多賀大社の「たが」の音が似ているのはやや気になります。多賀大社は滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座しており、Wikiによれば「『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。」とのことです。

多賀大社はその鎮座地からしても、本来犬上氏が祖神を祀った神社だったのです。これはとても気になる見解です。「その46」では以下のように書いています。(注:長くなりますがご容赦ください。引用部分は赤括弧にしています)

菟足神社略記によれば菟上足尼命は籰繰神社、犬頭神社を創建し養蚕、機織りを奨励、犬頭糸や赤引きの糸を有名にした功績から、大神として仰がれるようなったとされます。(注:「菟足神社略記」に関しては原文を見ておらず、「穂の国八百年の旅」朝日新聞出版サービスを参照しています)

菟上足尼命は犬頭神社の社伝によると丹波出身とされるのですが、丹波国桑田郡は秦氏が桑を植え養蚕に従事したことから秦氏との関係が出てくるので、東三河における養蚕と機織りに秦氏系氏族の関与が推定されます。

菟足神社の祭神菟上足尼命は犬頭神社の社伝では「丹波国から来た穂国造の葛城上足尼」とされます。犬頭神社の祭神は保食大神で、神社の由来について「今昔物語集 参河国始犬頭糸語」に面白い説話があります。内容は幾つかのバリエーションがあるようですが、大差はありません。うんと大ざっぱに書けば以下のようになります。

三河国の郡司の妻が養蚕を営んでいたが、飼い犬が蚕を食べ、鼻の穴から絹糸を出した。その犬が死んだので神として祀ったのが犬頭神社である。犬を埋めた桑の 木には数多くの蚕がつき、上質な糸が採れたので国司が朝廷に献上、犬頭糸と呼ばれた。犬の頭を葬ったところに社を創建したのが犬頭神社で、犬の尾は大崎町に葬り、足は足山田に葬ったと伝えられている。

犬頭神社の鎮座地は豊川市千両町糸宅107ですが、千両は村が白糸をそれぞれ千両ずつ納めたことに由来し、糸宅は郡司の屋敷に由来しています。

社記によれば創建は舒明天皇の頃とのことで、天皇の生没年は593年、641年となっています。その頃に三河国の郡司が云々と言うのは、由緒に混乱があるようです。なぜなら郡司は、律令制の時代に中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官だからです。 犬頭神社の由緒詳細に関しては以下を参照ください。
http://www.ooyasiro-jinjya.com/jinjya/chigiri/kentou.html

社記によれば、犬頭神社は犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と関係があり、犬上氏を犬頭と書いたとされますが、どう関係するのかは不明です。犬上氏は日本武尊の子・稲依別王 ( いなよりわけのみこ )の後裔とされ、犬上御田鍬は最後の遣隋使および最初の遣唐使を務めています。そこで、稲依別王に関して調べてみると犬に関連した伝説が伝わっていました。

滋賀県犬上郡多賀町富之尾に鎮座する大瀧神社に伝わるお話です。大瀧神社の境内末社・犬上神社は、かつてこの地に栄えた犬上族の祖神を祀った宮と言われています。伝説の内容は以下となります。

稲依別王が大蛇退治に出て昼寝をしていると、連れていた犬(小石丸)が勢いよく吠えだした。稲依別王の背後にいた大蛇が襲いかかろうとしていたからだった。目を覚ました稲依別王は静かにせよと言ったが、小石丸はますます大きな声で吠え続けた。怒った稲依別王、太刀で犬の首をはねてしまった。その首は大蛇の頭に噛みつき、そのまま一緒に川に落ち、大蛇は死んだ。稲依別王は小石丸の首をはねたことを悔やみ、この地に祠を建て亡骸を埋めて松の木を植えた。それが犬胴松である

詳細は以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/engisiki/oumi/bun/oum220602-02.html

なお、滋賀県犬上郡豊郷町八目に鎮座する犬上神社にもほぼ同様の伝説が伝わっています。犬頭神社と伝説の内容は異なっていますが、犬が登場し死んで、木を植えるなど共通項が見られます。どうやら犬頭神社における伝説の基本形は遠く離れた犬上神社にあったようです。

長々と引用しましたが、丹波国出身の菟上足尼が創建したとされる犬頭神社は犬上氏の関与があったと理解されます。これを他の資料から確認できないでしょうか?調べたところ、「豊川市十年史」には以下のような記載がありました。

しかしながら、少くとも犬上氏が、この土地に居住していたことと、養蚕がこの地方で相当旺に行われていたことは容易に想像されることで、彼等の祖先に対する崇敬と、犬上氏の中心的な拠点が犬頭神社に象徴されたと考えることが出来る。

「豊川市十年史」の内容はデジタル化されており以下を参照ください。
http://oshimamd.sakura.ne.jp/kosyo/kawa10nen.pdf#search='%E6%9D%B1%E4%B8%89%E6%B2%B3+%E7%8A%AC%E4%B8%8A%E6%B0%8F'

秦氏との関連が想定される丹波出身の菟上足尼命は犬頭神社を創建し、犬頭神社は犬上氏である犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と関係があり、多賀大社は本来犬上氏の祖神を祀った神社で、その鎮座地(滋賀県犬上郡多賀町多賀)に近い滋賀県犬上郡多賀町富之尾に鎮座する大瀧神社(犬上氏の祖神を祀る)には犬頭神社と似通った伝承が存在しました。これはかなりややこしいですね。Wikiには多賀大社に関して以下の記載があります。

犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。


犬上氏は多賀大社に深い関与があると理解されます。また多賀大社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあります。砥神神社には社口大明神の巨大な石碑があり、明らかに「お多賀杓子」と社口大明神は関連しています。

砥鹿神社と繋がりそうな砥神神社は多賀大社と関連があり、多賀大社は犬頭神社と犬上氏で関連があり、犬頭神社の創建には秦氏との繋がりが深い菟足神社の祭神・菟上足尼が関係していることになります。話が随分錯綜していますが、多賀大社は砥神神社と犬頭神社の回路を通して砥鹿神社に影響を及ぼしているようにも思えてきます。だから社名も多賀(たが)と砥鹿(とが)で似通ったものになっているのでしょう。

砥鹿(とが)の名前は秦氏に関係すると「その75」で書いていますが、多賀大社のすぐ近くには依智秦氏の秦荘があります。丹波篠山の大歳神社(大歳神は大和岩雄氏によれば秦氏系の神)には多賀大社と関連する犬の伝承が伝わっています。大歳神社に関しては以下を参照ください。
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kinki/shrine/ootoshi/ootoshi.htm

以上、とにかくややこしいので整理し直してみます。

中継ぎ側の人物である朝廷別王は丹波道主王の子で、犬頭神社の社伝では、菟上足尼命は丹波国から来たとされます。ストーリーの始まりには丹波があると理解されます。

次に丹波の大歳神社の伝承から、丹波は近江に接続していると理解されます。近江の犬上氏は東三河の犬頭神社(菟上足尼創建)に接続しています。その犬上氏は多賀大社に深く関与しており、多賀大社は東三河の砥神神社に接続していきます。そして砥神神社は三河一宮である砥鹿神社に接続していくのです。ここまで検討して菟上足尼の動きが見えてきました。

彼は丹波国を出て近江に立ち寄り犬上氏一族と出会い、彼らと共に東三河を目指したのです。だから、犬頭神社に犬上氏の伝説が残り、創建は菟上足尼とされたのです。その動きの背後にあるのはもちろん秦氏であり、このため犬頭神社は養蚕と関係してくると考えられます。

秦氏の関与は丹波、近江、東三河の各地域に彼らの存在があることからも、推定されます。ただ、近江から東三河はやや距離が離れており、その間に別の中継地域があるかもしれません。例えば、伊勢国など……。

ところで砥神(とかみ)神社の読みを見ると、とても気になる点が出てきます。「とかみ」は菟上とも書けるからです。そう思って関連をネット上で探すと、さらなる驚きの情報が……。以下のブログには次のような内容が書かれています。
http://ryuuranokai.blog.fc2.com/blog-entry-102.html

砥神山の東北側に相楽神社があるが、この相楽神社というのが、以前は兎上神社(とかみじんじゃ)と呼ばれていて、熊野神社と八幡社が合祀されて今の相楽神社という社名になったということである。砥神神社には他にも、兎上、兎頭、戸神、十鹿見、遠鹿見といった書き方がある。

あるホームページを見ると、山形県にも富神山(とかみやま)があって、様々な別名を持ち、また各地の「とかみやま」を拾い上げており実に面白そうな記事となっています。URLは以下の通りです。
http://www4.ocn.ne.jp/~tokami/siseki/sisekimap.html

富神山の別名である戸神や十日見は砥神山の別名である戸神、十鹿見と同じかほとんど同じです。何か繋がりがあるのかもしれません。さらに上記の砥神神社に関連するブログには以下のような内容が書かれていました。

砥神神社の社伝によると、この地にしばらく滞在していた橘諸兄卿は、砥神山に光る物が現れるのをみた。そして、夢の中に白髪の老人が現れ「その山は縁故ある霊地であるから、すみやかにワシを祀るがよい」と告げた。恐る恐る「いかなる神におわしますか?」と尋ねると「ワシは登加美の神じゃ」と告げた。それで、砥神山の山嶺に「とかみの神」を祀ったのが砥神神社の始まりだと伝えられている。

砥神神社と砥鹿神社の創建伝承には非常に似通ったものがあると理解され、両者の繋がりが一層強く確認できました。砥神神社と菟足神社は菟上のキーワードで繋がり、菟上足尼は秦氏との関係が想定され、砥鹿神社が鎮座する本宮山は山麓に秦氏が多い点でも関連性を感じさせます。

橘諸兄卿は本宮山の草鹿砥氏と同様の役割を果たしているようです。梅宮大社は橘氏が一門の氏神を祀る神社で、当初山城国相楽郡に創建されました。砥神山の東北側に鎮座するのが相楽神社で、以前は兎上神社(とかみじんじゃ)と呼ばれていました。正しく「相楽」繋がりですね。さらに驚いたことに梅宮大社の宮司の多くは秦氏であり、橘氏と秦氏は関係がありそうです。砥神神社と菟足神社は菟上のキーワードで繋がることから、菟上で検索したところ菟上王がいました。菟上王の系図は以下の通りです。

開化天皇―彦坐王―大俣王―菟上王

いやはや驚かされますね。既に書いた朝廷別王、日下部氏の系図と比較してください。

第9代・開化天皇―彦坐王―丹波道主命―朝廷別王(三川穂別の祖)
開化天皇―彦坐王―狭穂彦王(日下部連の祖)

朝廷別王と菟上王が同じ流れの中に収まっています。となると、菟上王も中継ぎ側の人物でしょうか?しかも、秦氏と関係のありそうな菟上足尼と全く同じ名前です。次回は菟上王に関して調べてみます。

              東三河の秦氏 その84 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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