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東三河の秦氏 その84 持統上皇東三河行幸の謎


今回は菟上王に関して見ていきますが、菟上王と菟上足尼との関係や秦氏との関係も視野に入れる必要があるでしょう。とは言っても、どこから見ていけばいいのかなかなか難しそうです。取り敢えず、系図から始めることに……。

開化天皇―彦坐王―大俣王―菟上王

記紀によれば、第9代開化天皇の子が彦坐王で、彦坐王が山代の刈幡戸辨(かりはたとべ)を娶して生まれたのが大俣王です。では、山代(=秦氏最大の拠点である山城国)の刈幡戸辨とはどんな人物でしょう?

彼女は秦氏系と推定されます。なぜなら刈幡とは、既に書いたように山城国相楽郡の蟹幡(かんばた)に由来すると考えられるからです。そして蟹幡は、神服、神畑(豊橋市に二カ所ある地名)へと繋がっていきます。相楽郡は秦氏の居住地と理解されますが、既に書いたように砥神山の東北側に相楽神社があり、相楽神社はかつて兎上神社と称されていました。相楽には見えない関連性がありそうです。蟹幡の詳細は「富士山麓の秦氏 その31」を参照ください。

刈幡戸辨の記述は「古事記」の垂仁天皇の条に出てきますが、面白いことに山城国相楽郡も垂仁天皇の条に出てきます。円野比売は大和国から丹波国へ向かう途中で自ら命を断つ決心し、 山代国の相楽に至ったとき木に縄をくくり付け首を吊ろうとします。しかし死ぬことはできず、弟国(おとくに、秦氏の拠点でもある京都府乙訓郡)に着いたとき、ついに深い淵に落ちて死にました。

以上から、大俣王には秦氏の血が入っていることになり、その子が菟上王(うなかみのおう)でした。菟上王とは菟足神社の祭神菟上足尼命を意味すると考えられないでしょうか?もしそうなら、菟上足尼命には酔石亭主の期待通り秦氏の血が入っていることになり、スムーズに秦石勝へ繋がっていきます。また、中継ぎ側の人物として考えることもできます。

(注:「先代旧事本紀」の 「国造本紀」によれば、菟上足尼命は葛城襲津彦(武内宿禰の子で、秦氏の祖である弓月君を出迎えに行った人物)の四世の孫で、雄略天皇の御代に「穂の国」の国造に任じられたとされます)

菟上王に関して別の視点から見ていきます。菟上王を祀っている神社は数えるほどしかなく、調べたところ伊勢国朝明郡(現、三重県いなべ市大安町宇賀1070)に菟上神社が鎮座していました。祭神は菟上王ですが、他にも多くの神々が合祀、配祀されています。詳細は以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/engishiki01/ise/bun/is081105-02.html


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菟上神社の位置を示すグーグル画像。

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菟上神社の鳥居。

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石段。

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拝殿。

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扁額。

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本殿。

比較的小ぶりな神社と理解されます。しかし境内はとても清々しく地元から崇敬されているのでしょう。大安町の町名は奈良時代に大安寺の寺領であったことに由来しますが、この寺は空海の師である勤操(秦氏)など、秦氏系の強い寺です。(注:大安町の町名は昭和34年に郷土史を研究された小川重太郎氏が大安寺史料を調査し、当時の町長に進言して採用されたもの)宇賀は秦氏が創建した伏見稲荷大社の祭神・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と繋がってきます。)

さて、前回で菟上足尼の移動ルートに関して丹波、近江、東三河としましたが、近江から東三河までが距離がありすぎるので、別の中継地域があるかも知れず、例えば伊勢国と書きました。多賀大社からは大君ケ畑を経由して鞍掛峠を越え、鈴鹿山脈と養老山地に挟まれた谷を下れば、伊勢国に鎮座する菟上神社に行き着けます。


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鞍掛峠を示すグーグル画像。多賀大社から菟上神社までは画像を拡大して確認ください。

鞍掛峠は伊勢から京に向かう場合に利用する峠で、Wikiによれば「名称の由来は858年(天安2年)惟喬親王が藤原良房の追討を逃れ都から逃れる際、ここで馬の鞍を外して休憩をとらせたことに因んで名付けられた。」とのこと。古い歴史のある峠と理解されます。谷を下れば員弁川石の産地・員弁川となりますが、員弁(いなべ)郡は古代の祭祀氏族である猪名部氏にちなんでいます。

お隣の菰野町は「秦さんはどこにいる? その6」で書いたように秦姓の多い地域です。

三重県における秦姓は全体で165人。三重郡菰野町55人。四日市市36人。員弁郡東員町22人。津市14人となっており、県北部に集中していると理解されますね。その中でも最も秦姓の多い菰野町周辺地域について少し詳しく見ていきましょう。菰野町の岡村(近世)に関して角川日本地名大辞典によれば、以下の通りです。

もとは千草村の枝郷(元禄郷帳・天保郷帳)村の草分は信濃国より移住した秦氏ほか13人衆(倉品・山口・吉崎・白木・三枝・水越・芝田・藤山・大塚・山川・石田・桑原)であるといわれる

内容詳細は以下を参照ください。
http://www.jlogos.com/new2_result2.html?keyword=%E5%B2%A1%E6%9D%91(%E8%BF%91%E4%B8%96)&id=7363562

この中で千草村とありますが、これは千種と考えられます。そして、蘇我氏の圧迫から逃れて播磨国の坂越に入り、赤穂市内から坂越湾に流れる千種川流域の開拓をしたのはかの有名な秦川勝でした。川の流域一帯には多数の大避神社が鎮座しています。つまり千種村は秦川勝に関連する秦氏地名であり、江戸時代に信濃国から秦氏が移住して菰野町に秦氏が多くなった訳ではないのです。

員弁郡東員町長深にも秦姓の方は多く居られます。Wikiによれば、「七代目松本幸四郎は、明治3年(1870)大長村字長深で土木業をしていた秦専治、母りょうの三男として生まれ、豊吉と名づけられた。5歳の頃、舞踊の名門藤間流の家元二代目藤間勘右衛門が豊吉を藤間家の養子にした。」とのことです。従って現在の松本幸四郎氏や松たか子氏はいずれも秦氏の流れを汲む役者さんとなります。


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長深を示すグーグル画像。

朝明郡は、天武天皇が壬申の乱に際して 同郡の迩太川(朝明川)で天照大神を望拝した地とされています。正倉院文書には朝明郡蘆田郷出身の秦家主に関する記録が残されています。内容は以下を参照。
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/img/020319/64shin.jpg

以上から、菟上神社はこれら秦氏エリアに囲まれたような場所にあると理解されます。他に菟上王を祀った神社がないでしょうか?調べてみると、三重県四日市市伊坂町1388には菟上耳利神社が鎮座していました。伊坂町には字菟上の地名も存在します。社名は明治四十一年、菟上神社に同村字上ノ山の耳利神社を合祀したもので、耳利神社は「ミトシ」であり、御年神(大歳神)を意味しています。神社詳細は以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081105-01.html

御年神は大年神と同じで大和岩雄氏は大年神を秦氏系の神としています。前回で丹波国の大歳神社と多賀大社が犬の伝承で繋がっている点を書きました。その大歳神社と同系列の耳利神社が菟上王を祀る菟上神社に合祀されているのです。このことからも、菟上王=菟上足尼命は丹波、近江、伊勢を経由して東三河に至ったと理解されます。

菟上王と菟上足尼命を同一人物とするには時代的に合わない部分もありますが、菟上足尼命が自らを菟上王に擬していた可能性も排除できません。いや、やはり菟上王=菟上足尼命なのでしょう。「その6」において、菟足神社の昇格碑文に「平井なる柏木濱に宮造して」とあることから、菟上足尼命は皇族ではないかと書きました。菟上足尼命=菟上王だとすれば、その推測は正しいことになります。

さらに、上記したように伊勢においても菟上神社周辺地域は秦氏の密集地であり、丹波、近江、伊勢、東三河の全てに秦氏の存在が認められ、菟上足尼命の移動の背後に秦氏がいたと理解されます。

菟上王に関しては「古事記」にも出てきます。垂仁天皇の皇后沙本毘売(サホビメ)が生んだ皇子本牟智和気王(ホムチワケ)は成長しても言葉を発することがなく、曙立王(アケタツ)と莵上王の伴で出雲大神の宮を訪ねた結果、口がきけるようになりました。それを天皇に奏上したところ、天皇は喜び菟上王を返して、神の宮を造らせたとあります。

「古事記」の記載では出雲に行ったことになっていますが、神の宮を造った場所は丹波だと推測します。理由は、丹波道主命の子が菟上王で、菟上足尼命は丹波国の出身であり、丹波には元出雲と称される出雲大神宮が鎮座しているからです。そして菟上王(=菟上足尼命)の移動場所の全てが秦氏の居住地域であり、裏に秦氏の存在があると理解されます。

ところで、「歴史に秘められた謎を解く その9」にて以下のように書いています。

天孫降臨とは、筑紫地方にあった邪馬台国の部民が、日田盆地(ここには日向の地名が多い)を経由し、耶馬溪のある山国川を下り、豊前の中津(仲津)に到着した経緯を描いたものでしょう。天孫が降臨した場所である豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)とは、正しく台与(とよ)が祭祀する中津の国(豊前国=秦氏の国)ではないでしょうか。

邪馬台国の卑弥呼が巫女アマテラスとすれば、彼女の一族が秦氏の支配地域である豊前国に降臨したことが第一次天孫降臨になります。持統上皇が自らを天照大神に擬しているとすれば、また大和の藤原京を第二次高天ヶ原とすれば、彼女と文武天皇が秦氏の存在する東三河に行幸したことは、正しく第二次天孫降臨そのものであったと理解されます。

以上から、持統上皇の東三河行幸は岩戸隠れから天孫降臨に至る日本神話全体を東三河と言う現実世界において具現化することを目的としていたとの主張は正しいことになりそうです。

しかも、これら全ての背後には豊に象徴される秦氏が存在していました。東三河には豊橋、豊川、豊根、豊津、豊岡など頭に豊の付いた地名が異常に多いのは既にご存知の通りです。また天照大神の死と再生に秦氏の関与がある点は何度か書きました。そう、神話側と現実側を架橋する一族とは秦氏に他ならなかったのです。但し彼らは自分たちの存在をほとんど表に出していません。よって、神話側と現実側を繋ぐ影の中継ぎ側が秦氏だったことになります。

東三河の謎解きシリーズはこれにて終了です。84回も続いたとは自分でも驚きですが、実はまだ書き足りない部分もあります。年内でうまく纏められそうにないので終了と書いたものの、ある程度纏まれば来年にまた少し続けてみたいとは思っています。
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