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新春の真清田神社 その4


今回は前回の補足です。前回でアップした尾張名所図会の製作時期は江戸末期から明治初期とされ、1800年代ですからさほど古いものではありません。これより古い絵図がないかチェックしたところ、1653年に補修された真清田神社古絵図なる絵図があると判明しました。

驚いたことにこの古絵図には本殿背後に三つの鳥居と社が描かれています。これは明らかに三ツ鳥居或いは三輪鳥居と呼ばれる鳥居の形式で、大和の三輪山山麓に鎮座する大神神社の鳥居に酷似しています。

三ツ鳥居に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%84%E9%B3%A5%E5%B1%85

真清田神社古絵図の画像は極めて不鮮明なので、かなり加工した上で三輪鳥居の部分をアップします。

003_convert_20140116092250.jpg
真清田神社本殿背後の三輪鳥居。上端のほぼ真ん中に見えています。

この位置は間違いなく現在の三明神社の鎮座地と同じです。だとすれば、古絵図に書かれたこの鳥居と社殿も三明神社と考えてほぼ間違いないものと推定されます。古絵図の補修が1653年とすれば、少なくとも元の絵図は1500年代或いはそれ以前に描かれたものになります。

以上より、三輪鳥居背後の社殿に祀られている神は、大和の大神神社と同じ大物主神である可能性が高くなりました。原初は一宮市の大神神社を創建した出雲族の大三輪氏が真清田神社の社地においても大物主神を祀ったものと思われます。大三輪氏(三輪氏、大神氏)は大物主神の子である大田田根子の後裔氏族であり、同神の祭祀を司っていました。(注:大三輪氏と大田田根子が実際に繋がるかは微妙な問題がありそうです)

真清田神社の現在の説明すなわち三明神社祭神は本宮の荒魂である、との内容を受け入れた場合、本宮祭神を大己貴命としてその荒魂はやはり大国主命になると考えられ、それは前回で書いた通りです。いずれにしても、原初の真清田神社は大和から移り住んだ大三輪氏が一宮市の大神神社や現在の真清田神社・社地において大物主神を祀ったのが始まりと考えていいでしょう。

次に真清田神社の神職を見ていきます。同神社神職は当初大三輪氏系の真神田氏でした。天野信景が著した「本国神名帳集成」によれば、(真清田神社の祭神は)真神田朝臣・大神朝臣等祖神也と記されています。「三代実録」には、「右京人左大史正六位上真神田朝臣金雄 賜姓大神朝臣 大三輪大田田根子命之後也」と記載あり、真神田氏が大田田根子の後裔となり、大物主神に接続します。

ただ、真神田氏に関してさらにチェックすると、「新撰姓氏録」物部氏族条の左京神別上には真神田曽祢連(まかみたのそねのむらじ)。神饒速日命の六世孫、伊香我色乎命の男、気津別命(けつわけのみこと)の後なり。とあります。

大和国神別には真神田首(まかみたのおびと)。伊香我色乎命(いかがしこをのみこと)の後なり。ともあります。

つまり、真神田氏は物部氏となっているのです。これは当初出雲族の地であった大和にニギハヤヒ率いる物部氏が入植した状況を反映しているようにも思えます。その結果、真神田氏は物部氏の傘下に入ったグループと入らなかったグループに分かれたのかもしれません。もちろんその逆に、出雲族の傘下に入った物部氏のグループがあった可能性もゼロではありません。(注:壬申の乱において功績があった大三輪真上田子人君が死後大三輪真上田迎君(おおみわまかみたむかえのきみ)の諡号を賜ったことから、真神田氏の名が始まった可能性もあります)

Wikiには、「崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である意富多多泥古(太田田根子)を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。」と記載あります。ここにも、物部氏と三輪氏の祖である太田田根子との関係が見て取れます。やはりこうした事情が反映して真神田氏のありようが物部氏と出雲族の三輪氏系に分かれたように思えます。

補足は以上です。
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