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名鉄島氏永(しまうじなが)駅周辺を巡る その3

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01 /26 2014

田園の中を歩くと松に覆われた敷地が見えてきました。川曲(こうわ、かはわ)神社です。


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神社の位置を示すグーグル画像。

鎮座地は稲沢市子生和町北屋敷 1604で、子生和は「こうわ」と読みます。早速行ってみましょう。境内は大神社や二之宮社同様南北に長く、相当広いようです。

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社殿です。蕃塀と拝殿が見えています。

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角度を変えて撮影。

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解説板。

文字が薄れて読みにくいのですが、祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)、応神天皇とあります。菊理媛は白山神社の祭神です。なぜここに祀られているのかよくわかりません。棟札に「多喜理姫祝奉」と書かれたものが出たことからすると、本来の祭神は宗像系の多喜理姫だったものが、似た名前の菊理媛神にすり替わってしまったようです。社殿は、本殿が神明造、祭文殿、渡殿、拝殿と記載あります。拝殿から本殿まで長々と社殿が続いているのです。

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拝殿から渡殿、祭文殿。

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上の写真ではよくわからないので真横から見ます。

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本殿。

一応見終わりましたが、実は境内にとても気になるものがありました。それは…。

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何と超巨大な菊花石です。酔石亭主の背丈とほぼ同じ高さがあります。

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石柱。石産地 岐阜県本巣郡根尾村字大須谷と刻まれています。

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幾つもの菊花が浮き出ています。

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もう一枚。

磨かれていないので、一般的な鑑賞石としての雰囲気はありません。尾張の神社はさざれ石が置かれるケースがほとんどなのに、なぜここに菊花石が鎮座しているのでしょう?祭神の名前に菊が入っているからでしょうか?そんなはずはないと思います。きっとこの地と根尾を結ぶ何かに由来しているのです。遠く離れた尾張と根尾の間に何があるのか、あれこれ考えてみます。

根尾と聞いて石好きはすぐに根尾菊花石が頭に浮かびます。根尾菊花石は有名ですが、広く知られているとは言い難く、一般的には淡墨桜(うすずみざくら)が最も有名と思われます。Wikipediaをチェックすると以下のように書かれていました。

淡墨桜(うすずみざくら)とは、岐阜県本巣市(旧・本巣郡根尾村)の淡墨公園にある樹齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木である。
467年(雄略天皇11年)頃:伝承によれば、男大迹王(後の継体天皇)がこの地を去る時、檜隈高田皇子(宣化天皇)の産殿を焼き払い、その跡に1本の桜の苗木を植える。
これは愛知県一宮市の真清田神社ゆかりの土川家で発見された古文書『真清探當證』の記述による伝承。


何と、またもや「真清探當證」が出てきました。川曲神社の根尾菊花石は継体天皇繋がりで、社地に置かれたのかもしれません。なので、継体天皇をもう少し詳しく見ていきます。

即位前の継体天皇は男大迹王(おおどおおう、をほどのおおきみ)と呼ばれ、大和に入る前までの正妃は尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘、目子媛(めのこひめ)でした。熱田神宮社伝では宮簀媛命の墓と書かれた断夫山古墳の被葬者は、実際には尾張連草香とされ、この時期における尾張氏の勢力は絶頂段階にあったと思われます。その後目子媛は安閑・宣化両天皇を生んで、尾張氏は天皇家の外戚となりさらに勢力を増していったのです。以上から、継体天皇と尾張国は密接な関係にあったと言えそうです。

また継体天皇は、現在まで続く天皇家の実質的な初代ともされています。「日本書紀」によれば父は彦主人王で母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)とされています。ところが、「真清探當證」の記述はこれと異なっています。と言うことで、「真清探當證」などの記述をストーリー風に見ていきます。

履中天皇は大泊瀬幼武王(後の雄略天皇)を世嗣とした後、自分の長子である市辺押盤皇子を可愛がり後に立てしようと考えたので、大泊瀬幼武王はこれを憎み、市辺押磐皇子を殺害しました。市辺押磐皇子の子である億計王(おけのみこと、後の仁賢天皇)と弘計王(をけのみこと、後の顕宗天皇)は自分たちにも難が及ぶのを避けるため、一宮の真清田神社に彦主人王と共に逃れます。

真清田神社に入る前に、一行は籠守勝手神社(こもりかってじんじゃ、一宮市木曽川町黒田往還東東ノ切11)に宿泊します。彼らは黒田神社の森に駕籠を止め、駕籠の中に籠ったまま眠り、夜明けを待たず勝手に出発したことから、黒田神社は籠守勝手神社と呼ばれるようになりました。(注:社名の由来は酔石亭主の勝手な推測も入っています。真清田神社の境内に末社・古守神社が鎮座しているので、籠守勝手神社と関係がありそうに思えます)

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籠守勝手神社。グーグルのストリートビューより。

一行は無事真清田神社に到着し「名鉄島氏永(しまうじなが)駅周辺を巡る」の最初の記事にて書いたように、卯つ木塚(一宮市泉3丁目12番13号)に身を隠しました。億計王と弘計王は成人し、弘計王は彦主人王の娘・豊姫と結ばれます。そして生まれた子供が後の継体天皇である男大迹王だったのです。

なお「日本書紀」によれば、彦主人王は近江国高島郡三尾野(現在の滋賀県高島市一帯)にいて、越前国の越前三国の王の娘・振媛を娶って男大迹王を生んだことになっています。

「日本書紀」では彦主人王と振媛の子が男大迹王。「真清探當證」では弘計王と彦主人王の娘・豊姫の子が男大迹王。「真清探當證」は史書の記述をなかなか上手に改変(或いはこちらが真実?)しているように見えます。

川曲神社の所在地は子生和(こうわ)ですが、この場所こそが男大迹王の生誕地とされ、だから地名も子が生まれた場所で子生和となりました。難を逃れるため男大迹王は生後間もなく根尾村に移り住み時を待ちます。雄略天皇の死後、「真清探當證」によれば男大迹王の父である弘計王が即位して顕宗天皇となります。顕宗天皇の後には億計王が即位し仁賢天皇となりました。

男大迹王は目子媛と結婚して二人の皇子が生まれます。それが後の安閑天皇と宣化天皇になります。男大迹王が都に迎えられこの地を去る時、檜隈高田皇子(後の宣化天皇)の産屋を焼き払い、跡地に1本の桜の苗木を植えたとされます。それが樹齢1500年の根尾の淡墨桜だったのです。

以上から、川曲神社の超巨大菊花石は、この地で生まれた継体天皇が根尾村に移り住んだという伝承に基づいて置かれたと理解されます。一個の菊花石の背後に、実に壮大なストーリーがあったと感心させられますね。

川曲神社を出て歩き始めます。天皇の生誕地だけあって、子生和集落一帯は長屋門を備えた大型民家が多いように思えました。

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物凄い門構えのお宅。

お寺の門と見まがうほどです。グーグル画像の北屋敷とあるところです。

川曲神社から油田に向かいますが、油田は既に書いていますので、島氏永駅周辺の歴史探訪はこれにて終了です。
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酔石亭主

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