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龍渓山久松寺洞雲院


最勝寺を出て55号線を北に向かい左折すると龍渓山久松寺洞雲院(りゅうけいざん きゅうしょうじ とううんいん)に至ります。住所は知多郡阿久比町大字卯坂字英比67。


大きな地図で見る
洞雲院の位置を示すグーグル地図画像。

グーグル地図画像からも理解されるように、かなり大きな寺域を有しているお寺です。

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山門前より撮影。画面右下に何やら石碑が見えます。

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石碑です。

何と徳川家康公生母於大の方菩提所とのこと。相当な由緒を持つお寺だと期待されます。境内に入ってみましょう。

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本堂と前庭。お堂も庭も新しい雰囲気が漂っています。

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本堂をもう一枚。

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解説板。

やはり古い歴史を持つお寺でした。解説板の内容をもう少し肉付けしつつ見ていきます。

寺伝によれば、平安時代の天暦2年(948年)に菅原道真の孫、菅原雅規(すがわらのまさのり、延暦19年(919年)~ 天元2年(979年)8月)が開基となり、洞雲院の前身となる天台宗の久松寺を創建したとのことです。雅規は幼名を久松麿と言い、後に英比丸、英比殿とも称しました。洞雲院の住所は阿久比町大字卯坂字英比67ですから、阿久比の古名である英比を自分の名前に使ったものと推定されます。

では、菅原道真の孫である久松麿はなぜ阿久比に来たのでしょう?道真は昌泰4年(901年)、左大臣藤原時平の讒訴により九州大宰府に左遷されるのですが、この折に幼い久松麿も英比の坂部郷に流されたのです。久松麿は父親に似て賢い人物だったようです。

「阿久比町広報」によれば、「英比麿が5歳のとき、都から来た勅使を出迎え、腰をかがめて会釈をしたら勅使が口ずさみに『をさな心にかがみこそすれ』と言い掛けられ、英比麿はとりあえず『英比(えび)の子は生まるるよりも親に似て』と付け加えたそうです。海老の子が生まれたときから腰が曲がっているように、腰をかがめて会釈することは、生まれたときから親にしつけられた当然のことだということを意味しています。“英比”と“海老”の言葉が掛けてあるのです」とのことです。上の句と下の句をくっつけると以下のようになります。

英比(えび)の子は生まるるよりも親に似てをさな心にかがみこそすれ

なかなか良くできた句だと思えませんか?引用した阿久比町広報は以下を参照ください。
http://www.town.agui.lg.jp/category/kouhou/kouhou-H18/070115/burari_001.htm

なお広報には書かれていませんが、勅使が都に帰り帝に報告すると、帝は「その地に生まれるものは智慧が多い」と感嘆し、地名が智多郡(知多郡)になったそうです。まあ実際には、7世紀に評制の知多評が設置され大宝元年(701年)に郡制の知多郡になっていますので、英比丸の話は彼を賢く見せるための地元伝説なのでしょうね。

英比丸は阿久比神社にも関与しており、既に書いた神社解説板によれば、「延喜20年(920)英比丸(麿)が社殿を造営し、60間四方の社地を寄進した。没後、天徳3年(959)「英比丸命」として合祀された。」とあります。英比丸の屋敷は、その名前通り阿久比町椋岡字英比屋敷にあったとされます。

時代は下って室町時代、明應3年(1494年)雅規の後裔、久松定益が曹洞宗の洞雲院として再建し、七堂伽藍と四つの塔頭を整備したとのこと。またも七堂伽藍が出てきました。阿久比のこの一帯は巨刹がひしめいていたことになります。久松氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

系譜類では、久松氏は本姓菅原氏とされ、遠祖は菅原道真と伝える。それによれば、道真が大宰府に左遷されたとき、長孫の久松麿(後の雅規)は、尾張国知多郡阿久居(現在の愛知県知多郡阿久比町)へ配流され、この地の人は彼を久松殿と呼んだ。のちの南北朝時代に京都から雅規の後裔が阿久居に下向し、この地の領主となった。そして、室町期に雅規14世孫の道定が足利将軍家に仕えて阿古居の地7000貫を所領として認められ、先祖久松麿にちなみ久松氏を称したという。


南北朝時代に後醍醐天皇に仕えた菅原定長の子、定範が尾張国知多郡目代に任ぜられて英比郷に着任したのが阿久比における久松氏の実質的な始まりと言えそうです。以上から、阿久比の支配者である久松氏の祖は菅原道真の孫である菅原雅規となるのですが、阿久比の久松氏と菅原雅規が本当に繋がっているのかは疑問もあります。

久松氏の遠祖が菅原道真かどうかはともかく、阿久比に久松氏がいたことは確かです。では、久松氏と徳川家康の生母於大の方はどう繋がっていくのでしょう?解説板には天文16年(1547年)久松利勝のもとに徳川家康の生母於大の方が再嫁された、とあります。この間の事情をもう少し詳しく見ていきます。

於大の方は刈谷城主水野忠政の娘であり、14歳で岡崎城主松平広忠に嫁ぎ翌年竹千代(後の徳川家康)を産みました。ところが、兄の水野信元が今川から織田方に寝返ったため離縁され、久松利勝と再婚。康元、勝俊、定勝の3人を生みました。後に彼らは家康から松平姓を許され、江戸時代は徳川の親藩として栄えます。例えば松平定勝は徳川家康の元で次第に地位を上げ、二代目徳川秀忠の信任も厚く、桑名藩の領主となりました。定勝の子孫には寛政の改革を推し進めた老中松平定信や、アナウンサーの松平定知がいます。

戦国時代から江戸時代における久松氏関連の動きを詳しく辿ると切りがなくなるので、この辺で打ち止めにして於大の方のお墓を見に行きましょう。

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解説板。

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久松定義、定益の墓。

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久松俊勝、於大の方、松平定綱の墓。

松平定綱は解説板には定勝のニ男とありますが、松平定勝の三男で定綱系久松松平家初代です。画像真ん中が於大の方の墓ですが、遺骨を納めた墓は東京小石川の傳通院にあり、こちらの墓は遺髪塚となっています。

洞雲院は平安時代前期から江戸時代に至る様々な歴史が詰まった寺院でした。
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