FC2ブログ

尾張氏の謎を解く その2


尾張氏について検討を進めるに当たりもう一つ前提を置きたいと思います。それは、ある集団が自らを尾張氏と称した時点をもって尾張氏の始まり(発祥)にすべきという点です。そうしないと、極論すれば無限に過去へと遡ってしまい、時代を区切れなくなります。

例えば、尾張氏で比較的名前の知られた人物に建稲種命おり、日本武尊の東征に副将軍として従軍したとされています。歴史上のある地点で彼が自らを尾張氏と認識したと仮定して、それ以前の弥生時代にも、縄文時代にも、石器時代にも間違いなく彼の祖先は存在します。従って、どこかで時代を区切らないと、切りがなくなってしまうのです。もちろん、史書に尾張氏はいつから自分たちを尾張氏と称したなどの記述はないので簡単ではありませんが…。

次に、尾張氏の祖神(とされる)天火明命と天香山命には神話的な伝説が存在します。「真清深桃集」(享保18年(1733年))真清田神社の神主・佐分清円著)には、尊神鎮座のとき八頭八尾の大龍に乗りたまふ、と書かれており、これは天火明命が八岐大蛇に乗って尾張に降臨し、真清田神社に鎮座したことを意味します。書かれた時点は新しいものの、何らかの伝承や過去の出来事が元になっているのはほぼ間違いなく、その意味するところを探らねばなりません。

天香山命に関しても、真清田神社社記によれば、神武天皇の33年に尾張開拓の祖である天香山命が天火明命を祀ったのが始まりとされ、一方神社明細帳によれば崇神天皇のときに鎮座したとあります。

二つの史料で創建時点が異なっていますが、天香山命は既に書いたように高倉下と同神とされ、高倉下は神武天皇が危機に直面した時助けていますので、神武天皇33年にしないと辻褄が合わなくなり、神社側はこの年を創建年にしたのでしょう。いずれにせよ、上記の神話的伝説に関しても時代を区切る必要があります。なぜなら、神話や伝説の背後にもそれらの元となる何らかの事件や出来事があったと考えられるからです。

そうした視点を踏まえつつ、尾張氏の全体像をきちんと把握できるかどうか、極めて困難な課題ですが挑戦してみたいと思います。

尾張氏の全体像を把握するには、まず系図を参照する必要があります。尾張氏の系図に関しては、「先代旧事本紀」、「勘注系図」、「熱田大宮司千秋家譜」などがあるものの、それぞれに違いがあるのでどう理解すればいいのか悩ましい限りです。各系図に関してはネット上に掲載されていますので参照ください。以下はご参考まで…。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02116.htm

http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/tenson/owarikeizu.html

二つ目の系図は「先代旧事本紀」をベースにしています。この系図には、初代・天火明命―天香山命―天叢雲命に続く初期の5人の尾張氏系人物が葛木(葛城)に関係した女性と通婚したように書かれています。

具体的に見ていくと、天火明命3世孫の天忍人命は角屋姫(葛木出石姫)と結婚しています。同じく3世孫・天忍男命の妻は賀奈良知姫(葛木の国津神・剣根命の娘で、剣根命は「日本書紀」によると神武天皇の時代に葛城国造となった)となります。4世孫・天戸目命の妻は葛木避姫、同じく4世孫・建額赤命の妻は葛城尾治置姫となっています。7世孫の建諸隅命は孝昭天皇に大臣として仕え、諸見己姫(葛木直の祖・大諸見足尼の娘)を妻としていました。

つまり初期の尾張氏は葛城族の賀奈良知姫や諸見己姫を妻にし、また出自は不明だが、葛城にいたと思われる女性を娶っていたことになります。建額赤命の妻に至っては葛城尾治置姫と、葛城にいて尾張に置かれていた姫みたいな実にややこしい名前となっています。

尾張連の祖で4世孫の瀛津世襲(おきつよそ)命は別名が葛木彦命で、これは単に葛城の男を意味するだけの名前です。彼の妹の世襲足媛(よそたらしひめ)命が考昭天皇の妃となり、考安天皇の母になっています。また、第10代崇神天皇の皇妃は尾張大海媛(おわりおおしあまひめ、別名葛木高名姫命)となっています。

以上、尾張氏系図は尾張氏と大和葛城地域の繋がりを最大限に示唆していました。系図のみならず地名においても、「日本書紀」によれば葛城地域に高尾張邑があり、ここが尾張氏の拠点であると強調されているように感じられます。

これらと呼応するかのように、記紀には綏靖天皇から開化天皇までのいわゆる欠史8代中3代の宮殿が葛城郡にあると記されています。具体的には以下の通りです。

第2代綏靖天皇の宮殿は葛城高丘宮で葛城一言主神社に近く、現在の奈良県御所市森脇となります。第5代孝昭天皇の宮殿は掖上池心宮(「古事記」では葛城掖上宮)で、現在の奈良県御所市池之内。陵は掖上博多山上陵で現在の奈良県御所市大字三室となります。第6代孝安天皇の宮殿は室秋津島宮で現在の奈良県御所市室にあり、陵は玉手丘上陵で現在の奈良県御所市大字玉手となっています。(注:位置関係はいずれ地図画像でアップします)

上記した様々な内容から、尾張氏は当初葛城地域の高尾張邑を本拠にしており、初期天皇家にとって極めて重要な地位を占めていたと理解されます。などと言って、本当にいいのでしょうか?酔石亭主は大きな疑問を感じずにいられないのです。

この問題は一旦横に置き、さらに系図の時代を下ります。「先代旧事本紀」国造本紀は第13代の成務天皇期に天火明命13世孫の乎止与命が初代尾張国造になったとしていますが、同天孫本紀では11世孫とされ、誰の子に当たるのか明確ではありません。「熱田大宮司千秋家譜」は10世孫の小縫命の子を乎止与命としています。

ただ大縫命、小縫命は職掌が衣縫いで、京都・水主神社の由緒には比咩神と記載されていることから女神と考えるべきで、乎止与命に繋げるのは無理があります。水主神社に関しては以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/engisiki/yamashiro/html/020602-01.html

「勘注系図」では乎止与命は10世孫、11世孫のどちらなのかわかりません。別の史料では確か14世孫もあったような気がします。

「古代豪族系図集覧」には6世孫の建多乎利命(たけたおりのみこと)の子が乎止与命と書かれています。葛木坐火雷神社境内の古墳被葬者は、事実関係は別として、建多乎利命と伝えられているので、その子が初代尾張国造の乎止与命であるとすれば、乎止与命の時代に尾張氏は高尾張邑を出て尾張に入ったことになります。これは天香山命が高尾張から尾張に来て開拓の祖となったとの尾張側伝承には合致しません。もちろん後裔となる乎止与命が一族の祖神・天香山命を奉じて尾張に来たと解釈すれば、一定の辻褄は合わせられますが…。

第13代成務天皇の時代に乎止与命が初代尾張国造となり、その子の建稲種命が第12代の景行天皇期に、日本武尊の東征に従軍したと言うのも時代が逆転するおかしな話です。(注:各地の国造を成務天皇の時代に集中させたため起きた矛盾と考えられる)また5世紀から6世紀頃に始まったとされる国造制度が成務天皇の時代にあったとも考えられません。

要するに乎止与命の時代においてどの尾張氏系図も混乱を極めているのです。これをどう理解すればいいのでしょう?

まず考えられるのは、尾張氏による系図の捏造です。乎止与命以前の尾張氏系図は、彼らが葛城(高尾張邑)にいて初期天皇家と密接な関係があるように見せかけるため捏造したものと仮定します。そう仮定すれば、尾張にいた乎止与命の時代にうまく繋げられなかったので混乱が生じたと理解することが可能です。

しかしです。天皇家が尾張氏の勝手な系図捏造を許すはずがありません。特に初期天皇の皇妃を出している部分は、それが事実でないとするなら、絶対に許可されないと思われます。許可されるはずのないものが堂々と書かれているなら、それは天皇家から認められた、或いはそうするように強いられたと考えられます。

尾張氏は天皇家から系図の捏造を許された、或いは捏造を強いられた…。なぜそんなことが起きるのでしょう。天皇家が尾張氏に系図の捏造を強いたと仮定すれば、それが天皇家の系図に関係するものだけに、天皇家自体に初期天皇の系図捏造の意図があったと考えるしかありません。要するに、天皇家による初期天皇部分の系図捏造に尾張氏が加担した、或いは加担させられた。その結果として尾張氏の初期部分の系図も捏造されることになったのです。これが尾張氏の系図問題に関して考えられる唯一の合理的解釈となります。

仮に尾張氏の初期系図や高尾張邑の地名が捏造でないなら、高尾張邑一帯に必ず彼らの古墳や遺跡、伝承が存在するはずです。ところが、それらしきものは何も見当たりません。(注:もちろん現段階で断定はできませんが…)この現実と尾張氏初期系図や地名との間の大きな落差も、系図捏造の傍証になりそうです。

ただ、今のところ尾張氏が天皇家の系図捏造に加担した(或いはさせられた)根拠を十分に提示できないので、現地(高尾張邑一帯)訪問の時点で再検討することとします。尾張氏と天皇家の系図捏造問題は現時点における仮説として、次回以降尾張氏の謎に関する具体的な検討に入りましょう。

なお酔石亭主の場合、歴史の謎探索はいつもストーリー的に追っていきます。尾張氏の謎解きも同様の手法で進める所存です。そう書くと、Storyなら単なる物語ではないかとの批判も出てきそうです。けれども、歴史を英語で表記すればHistory。Historyを分解すれば、Hi=高度な、story=物語、すなわち高いレベルの物語=歴史となるのですから、こうした方法が間違っているとは言えません。

歴史は人々の意志がぶつかり合いながら様々に姿や方向を変え、大きなうねりとなって流れていきます。なので、今まで同様歴史を固定化させず流れのあるストーリーにすることを心掛けていきたいと思っています。なお、本シリーズの記事は「熱田神宮の謎を解く」シリーズで書いた内容と異なる部分も出てきそうなので、前もってお断りしておきます。

                    尾張氏の謎を解く その3に続く
スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2014/11 | 12
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる