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尾張氏の謎を解く その7


「その7」に至ってようやく、尾張氏の発祥地(とされる)高尾張邑を探索する段階になりました。このペースだと、仮に毎日アップしても年越しは必至と思われます。それはさて置き、まず高尾張邑の範囲を考えてみます。「日本書紀」には神武天皇が高尾張邑の土蜘蛛を葛の網で殺したので、葛城邑と号したとの記事があります。従って、古代の葛城地域が高尾張邑に相当すると考えられます。一般的に言って古代の葛城は、北は二上山、南は葛城山から金剛山東麓、東限は奈良盆地を流れる曽我川の範囲内となります。


葛城の大雑把な位置を示すグーグル地図画像。

地図画像では南から金剛山、葛城山があり、香芝市辺りが二上山で、曽我川は地図画像に記載ありませんが、大和高田市の東にある近鉄松塚駅の東側を流れています。この範囲内が葛城に相当するので、画像を拡大いただき全体イメージを確認ください。ただ、地図画像の範囲がかつての高尾張邑でそれが葛城邑に変わったとした場合、あまりにも範囲が広すぎるように思えます。なのでもう少し範囲を狭め、葛城市南部に相当する忍海から御所市のほぼ全域を葛城地域と捉えて検討を進めることにします。

ではその範囲のどこから探索を開始すべきなのでしょう?「その5」において真清田神社の由緒を二つ取り上げていますが、一つは天火明命がもう一つは天香山命が、いずれも葛城の高尾張邑から尾張国に遷ったとしています。この2神が祀られているのは葛木坐火雷神社であり、従ってここが高尾張邑の中心地と想定されます。

(注:酔石亭主の知る限りでは、葛木坐火雷神社から分祀された幾つかの笛吹神社を除き、葛城地域の他の神社で天香山命は祀られていないようです。また葛木坐火雷神社の由緒では天火明命は祭神となっていません)

と言うことで、最初の目的地を葛木坐火雷神社に定めましょう。最寄り駅は近鉄御所線の忍海駅。名古屋から近鉄特急に飛び乗って何度か電車を乗り換えることになります。忍海駅からほど近い西側山麓には葛木坐火雷神社が鎮座しており、この場所が高尾張邑の中心とすれば周辺一帯には尾張氏に関連する伝承や遺跡などが存在しているはずです。

そうしたものが本当にあるのかどうか、また忍海一帯はどのような土地なのか、詳しく調べてみることにします。酔石亭主は内心、忍海一帯に尾張氏の痕跡などないと想定しているのですが、初めから決めてかかるのは正しい歴史探索の姿勢ではないので、そうした考えは一旦横に置き、駅前のレンタカーを借りて出発しましょう。


忍海駅の位置を示すグーグル地図画像。

出発する前にちょっと変わった地名の忍海(おしみ)について見ていきます。かつては新庄町の南半分から御所市の北部一帯が忍海郡と呼ばれ、この地名自体が古代の大和に深く関係していました。詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。

忍海漢人(おしみのあやひと)とは大和時代に朝鮮半島から渡ってきた渡来人集団漢人(あやひと)の一つであり、鍛冶技術に秀でていた。 忍海郡に集落を形成していた事を名の由来とする。 彼らの集落の跡は、現代では脇田遺跡を中心とした忍海群というグループに位置づけられている。日本書紀によると、葛城襲津彦は、新羅の草羅城(さわらのさし)を攻略した際に捕虜を連れ帰った。この捕虜が、桑原・佐糜・高宮・忍海の四箇所に住んだ漢人の祖とされる

脇田遺跡は忍海駅からやや南寄りの西側約1.5㎞の位置にあります。高尾張邑の中心(と想定される)葛木坐火雷神社は脇田遺跡から西へ1㎞もありません。従って、脇田遺跡から葛木坐火雷神社にかけては同じエリア内と考えられます。(注:全体の位置関係は忍海駅の地図画像を拡大して確認してください)まだ断定はできませんが、どうやら忍海駅一帯は、葛城襲津彦が連れ帰った鍛冶技術を有する渡来人の居住区のようです。

葛城襲津彦は、事実関係は別として、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇の時代に様々な事績が見られ、酔石亭主の計算式では4世紀末頃に実在していた人物となります。(注:百済記にも名前が見える)彼は葛城氏の実質的な祖とされ、葛城氏は葛城山から金剛山の山麓一帯を支配していました。

既に書いたように、尾張氏の祖神である天香山命は鉱山、製鉄、鍛冶、鏡作りの総元締めのような存在(或いは象徴的な存在)でした。となると、忍海漢人との関連も推定されますが、そう短絡はできません。天香山命は(実在したとして)2世紀終わりから3世紀初め頃の人物で、葛城襲津彦が活躍したのは4世紀末。忍海漢人が脇田遺跡のあたりで鉄器生産を始めたのは早くても5世紀初め頃になるはずです。20年程度ならともかく、200年もの時代差がある両者を結び付けるのは無理があります。参考までにもっと古い時代における葛城山麓の状況を見ていきます。

「日本書紀」の神武天皇即位前紀には、「高尾張邑に土蜘蛛がいて、葛の網でこれを殺した。そこでその邑を葛城と言った」、「高尾張邑、-ある本には葛城邑-、に赤銅(あかがね)の八十梟師(やそたける、数多くの勇者の意)がいて天皇と戦おうとしたので殺した」、などの記事が見られます。

どちらの記事も高尾張邑に関連していますが、土蜘蛛と八十梟師は山の民の雰囲気が強く、海人系である尾張氏を連想させるものではありません。しかも、神武天皇即位前に高尾張邑の地名が出現したと同時に抹殺され葛城邑に変更されています。これはかなり意図的な怪しさが感じられます。赤銅の八十梟師には金属系の匂いもしますが、天香山命と関連付けるのは難しそうです。

忍海一帯は葛城襲津彦が連れてきた新羅系渡来人・忍海漢人の居住エリアと思われる点を押さえておき、忍海駅のすぐ近くにある葛城市歴史博物館を見に行きましょう。残念ながら酔石亭主にとっての必要情報はさほどありません。それでも、脇田遺跡の出土物は展示されていました。

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脇田遺跡の出土物。

ふいごの羽口と鉄滓が展示されています。Wikiには忍海漢人が鍛冶技術に秀でていたとありますが、それを証明する出土物と言えるでしょう。

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地光寺跡の解説。画像サイズを大きくしています。

地図に脇田神社とある部分が脇田遺跡の東遺跡でその西側が西遺跡となり、西遺跡からふいごの羽口と鉄滓が出土しています。これらから解説にあるように、地光寺は鉄生産にかかわった渡来氏族・忍海氏の氏寺と考えられているようです。

また脇田遺跡は縄文時代から、弥生時代、古墳時代に至る複合遺跡とのことです。出土した鉄滓、箱羽ロなど鍛冶に関係する遺物の存在から、一帯は鉄器生産の一大コンビナートとされるものの、時代的には6世紀後半となるそうです。

つまり忍海一帯は、葛城襲津彦の5世紀以降から6世紀後半にかけて渡来人が鉄器を生産していたエリアとなります。天香山命とはますます時代差が広がる結果となりました。もちろん5世紀以前、高尾張邑において尾張氏が活動していたかもしれず、それらはこれからの検討となります。

歴史博物館の脇に神社がありましたので、見に行きましょう。社名は角刺神社(つのさしじんじゃ)で鎮座地は葛城市忍海322となります。尾張とは何の関係もないはずの神社だと思いましたが、おっとどっこい、間接的な関係はありそうです。博物館の敷地からそのまま神社の敷地に入ると目の前に池がありました。

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池です。

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池の解説板。

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鳥居と社殿。何か解説文が掲げられています。

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解説文。読みづらいので関連部分を略記します。

葛城襲津彦が5世紀初め頃、新羅から連れ帰った人が住みついたのが忍海の始まりとされている。彼らは鍛冶仕事に従事する渡来系集団として活躍した。忍海の西に位置する平岡で昭和61年に発掘調査が行われた。その時、鉄箸(かなはし=ヤットコ)、鉄床(かなとこ)、鉄鎚(かなづち)などの鍛冶道具が出土した。また、鉄製の馬具、鉄製の紡錘車、スキ先、鎌等の鉄製品が多く出た。これらには朝鮮半島と関係の深い遺物が目立ち、渡来系の鍛冶集団の存在を示唆している。また忍海の西の脇田でも鉄器製作との関わりを窺わせるものが多数見つかっている。



平岡の位置を示すグーグル地図画像。

やはり忍海一帯は渡来系氏族による鉄器工房を中心とした土地のようです。ただ上記の解説文だけでは不十分なので調べたところ、平岡とは同集落西の山麓に位置する寺ロ忍海古墳群であり、200基近い小円墳が群集している古墳群でした。現在は公園や墓地として整備されています。

古墳群は5世紀後半から7世紀半ばまで造営され、副葬品として鉄鎚、鉄紺、鉄鎧、鉄鍬、鉄鋤、砥石などの鍛冶関連の道具類や農工具、鉄滓などが出土しているとのこと。他には朝鮮半島との関連をうかがわせる馬具類や、鉄刀、鉄剣、鉄矛などの武具なども発掘され、被葬者は鉄器の製造、鍛冶の技術者の首長であると考えられています。

いかがでしょう?解説文から忍海の始まりは5世紀初め以降で、その中心には渡来系の鉄器製造技術者であった確認できました。それ以前の忍海に、尾張氏を含む目ぼしい歴史はないと受け取れる記述です。もちろん一帯を高尾張邑とするのは現時点の推定に過ぎないし、神社の解説文だけで尾張氏の存在を否定することはできず、さらに追及を続ける必要があります。

さて、解説文にある平岡の場所は葛木坐火雷神社の北となります。高尾張邑の中心(と推定される)葛木坐火雷神社を取り巻くように、北側の平岡と東側の脇田のいずれも、5世紀以降の渡来人居住エリアだったのです。

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角刺神社解説板。画像サイズを大きくしています。

社地は飯豊青(いいとよあおの)皇女が一時期政務を執った角刺宮があったとされています。「古事記」には、飯豊、葛城の忍海の高木の角刺宮に坐しましき。との記述があります。高木とは高天原の司令神である高木神に関係するのでしょうか?彼女が政務を執った理由は、一宮市に隠れ棲んでいたとの伝承がある弘計(をけ)王(後の顕宗天皇)と、億計(おけ)王(後の仁賢天皇)が天皇の位を譲り合う期間が長く、その間に政務を代行していたからです。彼女は日本最初の女帝だったのかもしれませんね。

今回は忍海駅周辺の状況を検討しました。と言うことで、角刺神社を出て脇田遺跡方面に向かいます。もちろん現在は埋め戻されてほとんど痕跡はないでしょうが…。

                    尾張氏の謎を解く その8に続く
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