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尾張氏の謎を解く その22


前々回までの検討で尾張氏高尾張邑発祥説は否定されました。けれども尾張には、尾張氏の祖である天火明命と天香山命が高尾張邑から尾張に来たと言う伝承が残っています。この問題を解く鍵は伊福部氏にありそうですが、答えを得るまでには今まで以上に長い探索が必要となりそうです。

その検討に入る前に、基本事項をしっかり押さえておかねばなりません。なので今回は、まだ詳しく見ていない天火明命の属性を考えてみましょう。葛木坐火雷神社の解説板には「天香久山命ハ石凝姥命トモ奉申リ」とありました。石凝姥命は鏡作部の祖神で、その父神が鏡作部の遠祖・天糠戸神となり、ニギハヤヒの東遷にも随伴しています。また、天香山命=石凝姥命なら天火明命=天糠戸命の関係が成り立つのは以前に書いた通りです。

続いて、誰もが頭を悩ませるニギハヤヒ=天火明命をどう理解すべきか考えてみます。ニギハヤヒは沖津鏡(おきつかがみ、前漢鏡)と辺津鏡(へつかがみ、後漢鏡)を携えて大和に降臨しました。そして、天火明命は鏡と深く関係しています。だとすれば、天火明命とは特定の人物が神として祀られたのではなく、ニギハヤヒが携えた沖津鏡(おきつかがみ、前漢鏡)と辺津鏡(へつかがみ、後漢鏡)そのもののだったと言えるのではないでしょうか?

ここで天火明命は鏡だったとの仮説を立てることとします。この仮説が正しいとすれば、天火明命はある特定の人物が神として祀られたものではなく、鏡と言う古代において最も重要な祭具・呪具が神として祀られ、その際の名前が天火明命だったことになります。

既に書いたように、沖津鏡と辺津鏡を神宝とする籠神社の祭神も天火明命であり、この点も上記仮説の傍証になります。ニギハヤヒの伝承墓は存在しているのに、天火明命の場合は見当たらないのも酔石亭主の仮説を裏付けています。どうやらこの辺りに問題解決の糸口がありそうな気配。

そのキーワードは今までの検討を踏まえると、崇神天皇、天火明命、鏡、伊福部氏になり、皇祖神・天照大神も重要な役割を果たしていたと思われます。方向性は定まったので、天火明命と鏡の関係に主眼を置きつつ他のキーワードを絡ませて探索を開始しましょう。大和において天火明命と鏡を調べるなら、かつての鏡作郷に鎮座する鏡作坐天照御魂神社しかなさそうです。社名に天照御魂とあることから、天照大神が関係するとの推定も成り立ちます。と言うことで、葛城山麓を出て磯城郡田原本町八尾字ドウズ81に鎮座する鏡作坐天照御魂神社を訪問します。


鎮座地を示すグーグル画像。なぜか社名の記載がありません。

鏡作坐天照御魂神社に行く前に事前の知識を仕込んでおく必要があります。「日本書紀」を開き、尾張氏にとって最も重要な人物・崇神天皇の条を読んでみましょう。ざっと流し読みすると、二つの重要そうな記述がありました。

一つ目は宮中に祀られていた天照大神が、崇神天皇の時代になって外に出されたことです。元伊勢伝説の始まりと伊勢神宮創建に繋がる話ですね。二つ目は四道将軍が各地に派遣された話です。これは大和王権の勢力が強くなり、日本各地に遠征部隊を派遣したことを意味しています。

最初に天照大神が宮中から出された経緯を見ていきます。「日本書紀」によれば、大略以下の通りです。

崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。従来天照大神と倭大国魂神(=大和大国魂神=大己貴命=大物主神)は宮中に並び祀られていたが、神の勢いを畏れ、共に住むのに心安らかでなかったので、翌年天照大神と倭大国魂神を皇居の外に出すこととした。

この内容には理解しがたい部分があります。2神の勢いがそれぞれ強く衝突するので、神様同士が心安らかでなかったのか、崇神天皇にとってこの状況が心安らかでなかったのか、「日本書紀」の文面からは明確に読み取れないのです。「古語拾遺」には、「この朝に至り、漸く神の威を畏りて、殿を同くしたまふに安からず」とあるので、これを、次第に神威を畏れる気持ちになり、宮殿を同じくするのに心安くなかった、との意味に理解すれば、心安くなかったのは崇神天皇となりそうです。

「日本書紀」の上記記事の前には、崇神天皇の5年に国内に疾病が流行し民が多く死に、6年には百姓が流離し或いは背くものあり、その勢いは徳を以って治めることが難しいとありました。これらが神による災いと考えれば、その災いが齎されたのは神が皇居内で祀られていたためとも推測されそうです。

神様が皇居の中で祀られ天皇と一緒に住まわれていたことを「同床共殿」と言います。「同床共殿」は第5代考昭天皇の時代から始まりました。「大倭神社註進状」には、考昭天皇元年秋七月、葛城に遷都された天皇の夢に大己貴命が現れて、私の和魂は神代から三諸山に鎮まり、荒魂は大殿内に在り宝基の護衛をなす、とお告げがあったので、天皇は天照大神と倭大国魂神を大殿の内に並び祭ったとの記事が書かれています。

考昭天皇の時代に始まった同床共殿は、崇神天皇5年に廃されたことになります。重要なのは、宮中で祭祀されていた天照大神がこの時点で外に出されたことです。「日本書紀」には以下のように書かれています。

故、天照大神を以ては、豊鋤入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託(つ)けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。

天照大神は豊鋤入姫命に託されて笠縫邑に祀られたことになりますが、これは具体的に何を意味しているのでしょう?いずれにしても、「日本書紀」の内容だけではよく理解できません。疑問を解くため、神社の境内に足を踏み入れます。

                  尾張氏の謎を解く その23に続
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