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尾張氏の謎を解く その28

尾張氏の謎を解く
01 /11 2015

今回は解説板の内容から検討を始めます。解説板の写真は前回でアップしていますが、以下に全文を記載します。

当寺の創建は、大化3年(647年)、聖徳太子の家臣秦河勝によると伝えられ、平安時代には弘法大師が宿し「三教指帰」(さんごうしいき)を著したとも伝えられる由緒ある寺である。真言律宗に属し、千手観音が本尊で、聖徳太子・秦河勝を脇侍とする。付近一帯は大字秦庄といい、秦氏の居住地であった。泰楽寺の「楽」は神楽や猿(申)楽などの「楽」であり、泰楽寺とは、秦の楽人の意である。「風姿花伝」の大和の申楽四座の由来を記した条に、泰楽寺の門前に金春屋敷があったとあり、金春家は秦河勝の末裔と称していた。表門は珍しい土蔵門で中国風造りである。境内に梵字の”阿”をかたどった阿寺の池がある。寺伝によれば弘法大師が「三教指帰」というお経を執筆中、蛙の鳴声が喧(けたたま)しかったので、これを叱ったことから、それ以来この地では蛙の声はきかれないという。

では、上記内容を幾つかに区切って見ていくこととします。

当寺の創建は、大化3年(647年)、聖徳太子の家臣秦河勝によると伝えられ、

まず秦河勝に関して見ていきます。彼は聖徳太子のブレーンとされているものの、その事績は「日本書紀」を開いても僅かしかありません。具体的には推古11年11月の条で、聖徳太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、蜂岡寺を創建した記事。推古18年10月の条においては、新羅・任那の使節を出迎えた導者の一人として記述されています。皇極3年7月の条では、常世神の信仰で民を惑わせた大生部多(おおふべのおお)を富士川で討ち取りました。以上が秦河勝に関する記述の全てです。

これだけでは秦河勝の姿が浮かび上がらないので、別の側面からあれこれ見ていくことにしましょう。秦氏の子孫とされる西島家には「秦河勝広隆卿伝」が残されており、河勝が四天王寺、秦楽寺、広隆寺、教興寺、大恩寺などを創建したと書かれています。

四天王寺は聖徳太子の建立とされ、楽人は秦氏が務めていました。秦楽寺は秦庄に、広隆寺は太秦にあり、どちらも秦河勝が聖徳太子から仏像を下賜され創建されています。教興寺は聖徳太子が物部守屋討伐を祈願して秦河勝に創建させたもので、大恩寺は寝屋川市の旧秦村にあります。以上から、秦氏と関係するか彼らの拠点にあった寺が秦河勝創建とされていることになります。

秦河勝は猿楽の祖とされ、秦楽寺も秦の楽人を意味しています。そうした側面から秦河勝について書かれているのが、15世紀の初め頃世阿弥により執筆された「風姿花伝」で、これは能の奥義書とも言えるものです。

秦河勝に関しては「風姿花伝」の第四神儀篇に書かれています。他には金春禅竹の「明宿集」や、「庭訓徃來(ていきんおうらい)」があり、「庭訓徃來」はWikiによれば、「寺子屋で習字や 読本として使用された初級の教科書の一つである。南北朝時代末期から室町時代前期 の成立とされる」とのことです。こちらはデジタル化されているので以下を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532288

「明宿集」は内容的に「風姿花伝」とほぼ同じなので、「庭訓徃來」と「風姿花伝」の記述を取り入れつつ、秦河勝の人となりをできるだけ簡潔に書いていきたいと思います。なお例によってかなり端折って書いていますので、お含み置き下さい。

欽明天皇の時代、大和の国の泊瀬(はつせ)河に壺が一つどんぶらこ、どんぶらこと流れ下ってきた。取り上げてみると、二、三歳の童子だった。その中に系図があって広げてみると、秦の始皇帝の第二の子とあった。(注:「風姿花伝」では童子が帝の夢の中に現れ、我は秦始皇帝の生まれ変わりで、日本国に縁あって今ここにいる、と言ったとあります)

用明天皇は童子を養育し、童子は人より秀でた才能の持ち主となった。その子の氏を秦と定め名を河勝と号した。その人こそが、秦河勝にほかならない。聖徳太子が天下の乱れを鎮めるため、神代と釈迦の時代の吉例にならって六十六番の物まねを奉納するよう秦河勝に命じた。六十六番の物まねは橘の内裏、紫宸殿で執り行われ、天下は治まった。聖徳太子は、これを末代にまで伝えることにした。もともとこの歌舞は神楽と呼ばれていたが、神の字の偏を取って旁だけを残し、申楽とした。

秦河勝は、欽明天皇、敏達天皇、用命天皇、崇峻天皇、推古天皇、聖徳太子に仕え、申楽を子孫に伝えた。その後河勝はうつぼ船に乗って、西海に出て、播磨国の越坂浦(しゃくしのうら)に漂着した。人々は河勝を神と崇め奉り、彼を祀る神社を大荒(おおさけ)大明神と名付けた。本地は毘沙門天王である。

「六十六番の物まね」の意味がわかりづらいと思いますが、これは後で解説することとします。

「庭訓徃來」と「風姿花伝」に描かれる秦河勝の生涯は実に伝説的だと理解されます。童子の秦河勝が川を流れ下った壺から出てきたのは桃太郎伝説の原型で、山梨県の大月にも桃太郎伝説が存在する点を「富士山麓の秦氏 その32」にて書いています。

ただ秦河勝の場合は出生譚のみで鬼退治の部分がありません。大生部多を富士川で討った部分が鬼退治に当たるのかとも思いましたが、内容が明確に書かれているため鬼退治に当てるには無理があります。

鬼退治は、孝霊天皇の皇子である吉備津彦命(きびつひこのみこと)が鬼ノ城に立てこもった温羅を討伐する話が原型となっています。つまり、桃太郎伝説とは上記の二つの話が合体したものとなるのです。どんな回路を通して合体したのか、奈良県内を動き回るうちに何となく見えてきましたが、それはまた後の回のお楽しみとしておきます。

童子の秦河勝が壺に入って流れてきた泊瀬(はつせ)河とは現在の初瀬川で、奈良県桜井市の初瀬を流れ、三輪山の麓からて奈良盆地へと流れ込み、大和川に注いでいます。


初瀬川を示すグーグル地図画像。

では、解説板の次の内容に移りましょう。

平安時代には弘法大師が宿し「三教指帰」(さんごうしいき)を著したとも伝えられる由緒ある寺である。

この部分で秦氏と空海の関係が浮き彫りになってきます。秦氏と空海に関しては「日本に秘められた謎を解く その2~4」で書いていますので参照ください。

解説板には空海に関連して以下の内容も記載されていました。

境内に梵字の”阿”をかたどった阿寺の池がある。寺伝によれば弘法大師が「三教指帰」というお経を執筆中、蛙の鳴声が喧(けたたま)しかったので、これを叱ったことから、それ以来この地では蛙の声はきかれないという。

蛙が鳴かなくなったのは、秦楽寺七不思議の一つに数えられています。他の不思議も他愛ないものなのでここには書きません。空海は池を阿(ア)の梵字形で造らせ、池の中の島を「三教島」としました。三教とは儒教・道教・仏教のことで、空海は「三教指帰」において仏教が最善であるとしています。

なお、アは胎蔵界(たいぞうかい)を意味し、バンは金剛界(こんごうかい)、ウンは蘇悉地(そしつじ)となっています。空海はバンの梵字池を百済寺境内に、ウンの梵字池を与楽寺(よらくじ)境内に掘らせたとのこと。また田原本町千代に勝楽寺(現在は本光明寺)を建て、境内にバンの梵字池を造りました。秦楽寺のア字池、与楽寺のウン字池、勝楽寺のバン字池を総称して大和の三楽の池と言うそうです。では、解説板の次の記載内容に移ります。

真言律宗に属し、千手観音が本尊で、聖徳太子・秦河勝を脇侍とする。

この短い文面が酔石亭主にとっては実に感慨深いものとなっています。そもそも秦楽寺は、聖徳太子が百済王から献上された西天竺の仏師毘首羯磨(びしゅかつま)作の千手観音像を秦河勝に下賜し、それを安置するため河勝によって大化3年(647年)に創建されました。この千手観音像は様々な経緯を辿り神奈川県の大磯にまで至るのですが、調査結果は「大磯・高麗山の秦氏 その7」に纏めています。この千手観音像の起点となるのが秦楽寺なので、酔石亭主の感慨もご理解いただけるのではと思います。

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別の解説板。画像サイズを大きくしています。 

この解説板に千手観音に関して簡単な記載があります。一説には推古天皇の御宇(554~628)に創建とも記載あります。聖徳太子の没年が推古天皇30年(622年)なので、それ以前に秦河勝が千手観音を賜って、25年以上も後の647年に秦楽寺を創建したとするのはおかしなことになるからです。また、647年時点で秦河勝が存命しているのも難しそうに思えます。まあ、お寺の縁起と事実関係は別物なので、この辺はあまり突っ込まないことにしておきましょう。

付近一帯は大字秦庄といい、秦氏の居住地であった。この部分は前回で既に確認済みです。

泰楽寺の「楽」は神楽や猿(申)楽などの「楽」であり、泰楽寺とは、秦の楽人の意である。「風姿花伝」の大和の申楽四座の由来を記した条に、泰楽寺の門前に金春屋敷があったとあり、金春家は秦河勝の末裔と称していた。

「風姿花伝」には申楽の始まりが記されており、「推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰て、且は天下安全のため、且は諸人快楽のため、六十六番の遊宴を成て、申楽と号せしより、…中略…かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり」とあります。その秦河勝が聖徳太子から千手観音像を賜り創建したのが秦楽寺で、まさにここが猿楽発祥の地と言えそうです。(注:猿楽関係は岩波書店の「世阿彌 禅竹 日本思想体系24」を参照しています)

「六十六番」は「風姿花伝」にしばしば出てくるため、猿楽おいて重要な数字とされています。「風姿花伝」の第四神儀云には、申楽は天照大神が天の岩戸に籠られたとき、そこから出ていただくために歌舞を奏したこと、仏在所(古代インド)において釈迦如来の説法を外道が妨げたとき、後戸で鼓・唱歌をととのえ、六十六番の物まねをすると外道が静まったことがその始まりであると書かれています。「物まね」はある人物に扮してそれらしい姿態・行動を再現することで、能の演技の基本的要素を意味しています。

(注:日本において後戸で祀られているのは秦氏と関係の深い翁姿の摩多羅神で、摩多羅神=ミトラ神=弥勒菩薩となり、聖徳太子から秦河勝に下されたのが国宝第一号となった広隆寺の弥勒菩薩像です。金春禅竹の「明宿集」には、「カノ秦ノ河勝ハ、翁ノ化現(けげん)疑ヒナシ」と書かれています。秦河勝は摩多羅神と同体ともされますが、上記した内容が観念的に統合され摩多羅神=秦河勝となっていったのです)

さらに「風姿花伝」には、上宮太子(聖徳太子)が、天下少し障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、河勝に紫宸殿で舞わせたところ、天下は治まり、国は静かになったとあります。そうした様々な障りを鎮める歌舞が六十六番と言うことになりそうです。

                    尾張氏の謎を解く その29に続く
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酔石亭主

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