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尾張氏の謎を解く その29


「風姿花伝」を著した世阿弥は秦河勝の後裔と称し、秦元清と自署していました。金春流は室町時代前期に春日大社などに宮仕えした猿楽大和四座の一つで、円満井座に端を発しています。秦楽寺境内に鎮座する笠縫神社のお隣に春日神社があるのは、金春流と春日大社の関係が反映されたものと考えられます。

金春禅竹の「明宿集」によれば、秦河勝には三人の子がいて、そのうちの一人に猿楽を伝えたとあります。村上天皇(926年~967年)の代には後裔の秦氏安が紫宸殿で「翁」を演じました。その後、世阿弥の娘婿となる金春禅竹(五十七世宗家、1405年~1471年)の代に飛躍的な発展を遂げたのです。と言うことで、土蔵門前にあるもう一つの解説板を参照ください。

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秦楽寺金春屋敷跡の解説板です。読みやすいように画像サイズを大きくしています。

解説板の大文字部分は文面がわかりづらいので以下のように書き換えました。

秦河勝が創建した秦楽寺には、円満井座猿楽の祖先を秦河勝とし、子孫の秦氏安を中興の祖とする伝承がある。また秦楽寺の門前に「金春屋敷」があったとの伝承が存在する。これは世阿弥の「花伝書」に、「此ノ門前(秦楽寺)ニ金春屋敷有リ。其ノ内ニ天照太神ノ御霊八咫鏡陰ヲ移シ給ト云伝也。」と書かれていることによる。

秦楽寺の門前に金春屋敷がある点は後で検討することとして、非常にわかりにくく、且現在追及しているテーマとも関係ありそうな、「其ノ内ニ天照太神ノ御霊八咫鏡陰ヲ移シ給ト云伝也。」について考えてみます。

この文面だと、内容は多分、金春屋敷の中に天照大神の御霊である八咫鏡を移した、となります。「八咫鏡陰ヲ」がわかりにくいのですが、陰を影と考えれば影武者の言葉にあるように替え玉を意味するので、八咫鏡のコピーを遷した、としておきます。となると、秦楽寺近くに鎮座する鏡作坐天照御魂神社の神宝が八咫鏡のコピーの試作鏡なので、それを持ち出してきたのでしょうか?

秦楽寺一帯は笠縫邑で最初に天照大神の御霊である八咫鏡が遷された場所と推定され、上記の文面はその裏付けにもなりそうです。世阿弥や金春家は遠い過去の歴史を知っていて、八咫鏡のコピーの試作鏡を持ち込んだとしたら、実にうまく筋が通るのですが…。ただ、秦楽寺の門前に金春屋敷があるとの記述から、あまりにも唐突に天照大神の御霊である八咫鏡へと話が飛ぶので理解に苦しみます。前後の繋がりを見るため岩波書店の「世阿彌 禅竹 日本思想体系24」を参照しましょう。

かなり分厚いこの本を開き天照大神云々の部分を探したのですが、なぜか見当たりません。ネット情報でも何件か同じような内容がヒットしているのに妙ですね。酔石亭主の探し方が悪いのでしょうか?悩んでいても仕方ないので、「庭訓徃來」にどう書かれているかチェックしてみます。すると、デジタル資料のコマ番号23に以下のような文面がありました。

河勝が子に氏安と云ふ者有り、其子三人、金衣、金春、満太郎と云て、三人有り。金衣は絶て无き也。第二の子金春は春日の宮仕す、則ち先祖の為に泰楽寺を立つ。此の門前に金春の屋敷有り。其内に天照大神の御霊、八咫の鏡に陰を移し給ふと云い伝ふ也。故に金春の家を円満井と云ふ也。

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「庭訓徃來」の赤線部分が上記に相当。

上記の必要な部分を以下現代語にします。

金春は春日(神社)に宮仕えして、先祖のために秦楽寺を建てた。この門前に金春屋敷があり、その中に、天照大神の御霊、八咫鏡に陰を移したと言い伝えられている。故に金春の家を円満井と言う。

金春が先祖のために秦楽寺を建てたと言う最初の部分はよくわかりません。秦氏安の時代である900年代頃に再建したのでしょうか?「天照大神の御霊、八咫鏡に陰を移した」は既に書いたように、天照大神の御霊である八咫鏡を屋敷内に遷した、としておきます。

さて、天照大神の御霊云々は金春の家を円満井言うことの理由説明として書かれているものの、「天照大神の御霊、八咫鏡に陰を移した」のがなぜ「金春の家を円満井と言う」ことに接続するのか、因果関係が明確ではありません。困りましたね。他の資料を調べると、江戸時代中期に村井古道によって著された「奈良坊目拙解」に以下のような内容が書かれていました。

有霊井於其境内往古遷天照太神御霊屋八咫鏡故号圓満井因以遂為稱号云云

書かれている内容は、「境内(秦楽寺)に霊井戸があって、往古、天照大神の御霊である八咫鏡を遷したので円満井と号した」となります。鏡は円であり、天照大神の霊気に満たされているので円満井と号したと考えれば、うまく前後が繋がります。ただ、この井戸が屋根付き井戸で柱に鏡を掛けたのか、井戸の中に沈めたのかはっきりしません。

どうもすっきりしないので、酔石亭主が時々参考にする谷川健一氏の「四天王の鷹」(河出書房新社)を開いたところ、関連記事が出てきました。同書の「秦楽寺と楽戸」の項には例の文面が「風姿花伝」の大和の猿楽四座を記した条にあるとして掲載し、続いて以下の記載があります。

しかし円満井が、もともと榎葉井の地名に由来することは前述した通りである。それでは金春屋敷は、何故鏡作明神を勧請したか。それは古代中世では、井戸に鏡を入れて、井戸の魂とする風習があったためで、円満井から出発した金春は、円満井の座名にあやかって、井戸の神を大切にしたと考えられる。

榎葉井(えのはゐ、えはい)は桜井を意味しており、円満井が榎葉井の地名に由来する点に関して谷川氏は以下の説明をしています。

これまで述べたように、推古二十年に百済人の味摩之(みまし)が来朝し帰化した際、朝廷は味摩之を桜井に住まわせ、少年たちを集めて、伎楽の舞を習わせた。一方「明宿集」には一説では河勝は大和桜井ノ宮に影向したとあり、さらには秦河勝が壺に入って泊瀬川(はつせがわ)を流れ下ったとある。そこで泊瀬猿楽が根本であるとも云っている。したがって、味摩之と秦河勝はともに桜井を出発点にしている。桜井は味摩之の学統を受けつぐにも、秦河勝を源流とする猿楽にも原点と呼ぶのにふさわしい場所であったのである。…中略…「えのはゐ」から「えんまんゐ」への音韻の変化はごく自然で無理がない。

泊瀬川(初瀬川)の位置関係は前回のグーグル地図を参照ください。明日香村大字豊浦630番地に太子山向原寺(桜井寺)があり、その境内に桜井、榎葉井と称された井戸があったとのことです。詳細は以下を参照ください。
http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/toyoura-dera.htm

谷川氏は、味摩之と秦河勝はともに桜井を出発点にしている点、「えのはゐ」から「えんまんゐ」への音韻の変化はごく自然で無理がない点を理由として、円満井は榎葉井に由来しているとしています。この説明はとても納得できるものではありません。

まず向原寺は小墾田宮のすぐ南に位置し、豊浦宮で即位した推古天皇は豊浦宮に桜井寺を移しそれが豊浦寺となり、次に桜井寺の旧地に宮を移して小墾田宮と称しました。この桜井寺は桜井を流れる初瀬川からは距離があります。


小墾田宮一帯を示すグーグル地図画像。

向原寺が桜井寺と呼ばれ、その脇には桜井、榎葉井と称された井戸があったとしてもそれは地名ではありません。一方、童子の秦河勝は壺に入って桜井の初瀬川を流れ下っており、二つの桜井は別物となるのです。「明宿集」には泊瀬猿楽が根本と記され、桜井を流れる初瀬川に重点を置いています。

河勝が大和桜井ノ宮に影向したとする一説に関しては、「明宿集」に、「山里より、大和桜井ノ宮に影向しまします由、一説あり」との文面が唐突に出てきます。桜井ノ宮が豊浦宮か小墾田宮か不明ですが、小墾田宮を桜井ノ宮と考え、朝廷は味摩之を桜井に住まわせ、少年たちを集めて、伎楽の舞を習わせた、とすれば、この桜井と初瀬川が流れる桜井は別の場所となります。

それを谷川氏は「味摩之と秦河勝はともに桜井を出発点にしている。」と書き、あたかも同じ場所の桜井のように扱って、次に向原寺の桜井のみを取り出して、円満井は榎葉井の地名に由来するとしています。そもそも榎葉井は井戸の名前で地名ではないことから、上記のいささかトリッキーな論理構築には無理があります。さらに、百済人の味摩之が教えたのは伎楽であって、猿楽ではありません。伎楽、猿楽共に日本における祖は秦河勝であるにせよ、伎楽に関係した名前を猿楽の金春家が自らの座名(=円満井座)にするとは考えられないのです。

既に書いたように、金春家が円満井を座名としたのは、天照大神の御霊である八咫鏡を秦楽寺の霊井戸に遷したことに由来しており、桜井は関係ありません。また、「えのはゐ、えはい、さくらい」の音が「えんまんゐ」に転訛するとは思えません。「鏡開き」に関して、鏡は円満を、開くは末広がりを意味することからも、円満井の名前は秦楽寺の井戸に遷した鏡に由来するものと考えられます。

谷川氏はまた、古代中世では、井戸に鏡を入れて、井戸の魂とする風習があったため鏡作明神を勧請したとしますが、この説明も理解に苦しみます。一般的に井戸の神様は罔象女神(みずはのめの神)で、井戸を埋めると祟られるとされ、埋める前には鎮物として井戸の神に、剣、鏡、盾、人形などを捧げることになります。また単に井戸に鏡を入れるだけなら、なぜ天照大神の御霊である八咫鏡などと書くのでしょう?この背後にはもっと深い意味があったと考えるしかありません。

すなわち、秦楽寺は宮中を出た天照大神(=八咫鏡)が最初に奉斎された場所=笠縫邑であり、世阿弥や金春家はその事実を知っていたので、敢えて天照大神の御霊である八咫鏡を移した(遷した)と書いたのです。

なお、榎葉井は大和の葛城地方にあった可能性もあります。平安時代初期の古代歌謡である催馬楽(さいばら)の「葛城」には、「葛城の 寺の前なるや 豊浦(とよら)の寺の 西なるや 榎の葉井に…以下略」と言う歌があり、鴨長明による鎌倉時代の歌論書「無名抄」にも、宮内卿有賢朝臣が大和の国葛城に遊びに行き、翁に出合い、荒れた堂の名前を聞くと豊浦(とよら)の寺との答えがあり、この辺に榎の葉井といふ井やある、とさらに問うとあると言ってその場所に連れて行った話が書かれています。

「其内に天照大神の御霊、八咫の鏡に陰を移し給ふ」の文面に解釈しにくい部分はなおも残りますが、大局には影響がないので次に進みましょう。

                   尾張氏の謎を解く その30に続く
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