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尾張氏の謎を解く その33


酔石亭主は従来から秦楽寺一帯を元伊勢第一号の地と主張していますが、その根拠を明確かつ詳細に示す必要があります。と言うことで、笠縫邑が秦楽寺一帯である点の論証を進めましょう。まず地名ですが、田原本には笠縫駅があり、秦楽寺境内に笠縫神社も鎮座しており、かつてこの場所が笠縫邑であった名残となっています。

次に笠縫の地名は笠を縫うことすなわち菅笠の製作に由来しています。となると、笠を縫う一族・笠縫氏がここにかつて居住していたのかもしれません、それを知るために大阪へ飛んでみます。大阪市東成区深江南3丁目16-17には深江稲荷神社が鎮座していました。以下同社の由緒より引用します。

境内には笠縫部の祖を奉祀する笠縫社があります。笠縫氏は世々大和笠縫邑に住み、皇祖の御鏡を守護していました。垂仁天皇の御代、その一族は浪速の入江、片江、深江の島(笠縫島)に移り住み、世々菅笠を作るを生業とし、伊勢神宮式年遷宮の行われる毎に御神宝の菅御笠・菅御翳を調進したそうです。

深江稲荷神社ホームページは以下を参照ください。
http://fukaeinarijinja.jp/?p=166

この由緒だけで必要な情報は出揃っています。まず、「笠縫氏は世々大和笠縫邑に住み、皇祖の御鏡を守護していました。」とある部分が注目されます。なぜ笠を縫う一族が鏡を守護するのか疑問も出ますが、大和岩雄氏によればに笠縫と日祀り(太陽を祀ること)は密接な関係があるとのことで、納得です。

さてそこで、「倭姫命世記」には、崇神天皇の6年、倭笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神と草薙の剱を奉遷し、皇女豊鋤入姫命に奉斎せしめた。と記載されています。この奉斎期間は33年に及んでおり、笠縫氏は笠縫邑に遷された天照大神(=八咫鏡)を守護していたことになります。その後、八咫鏡のコピーとコピーの試作鏡が作られ、八咫鏡は第11代垂仁天皇の皇女倭姫命と共に各地を巡行し、最終的に伊勢神宮に鎮まります。八咫鏡のコピーは宮中の内侍所で祀られ、試作鏡は鏡作坐天照御魂神社の神宝となり天火明命と称されました。笠縫氏が垂仁天皇の御代深江に移り住んだのは、御鏡が笠縫邑を出て各地を巡行したため守護が不要になったからと理解されます。

(注:大和岩雄氏は「神社と古代王権祭祀」(白水社)において、「伊勢神宮には御笠縫内人がおかれ、日祈(ひのみ)の神事に使う笠を作っていたが、笠縫と日祀りは密接である」と書いています。天照大神が最終的に伊勢の地に鎮まって後、伊勢神宮に笠縫の技能民が置かれたと理解される記述です。ここからも笠縫と太陽信仰、太陽神である天照大神、太陽を象徴する鏡の関係が窺えます)

笠縫邑と深江稲荷神社に関してWikipediaには以下の記載がありました。

深江稲荷神社(大阪市 東成区深江南)には、付近の深江は笠縫氏の居住地で、大和の笠縫邑から移住してきた、との伝承がある。万葉歌人高市黒人(たけちのくろと)が「四極山(しはつやま) うち越え見れば笠縫の島 漕ぎ隠る 棚無し小舟」と詠んだ様に、古代には、笠縫島といわれた。笠縫島は、現在の深江から東大阪市足代にかけて、入江に浮かんだ島であった。笠の材料の確保のため、笠縫氏は島に住んだと思われるが、もともと大和の笠縫邑も、同じような低湿地か、島状の土地だったのではないかとも推測される。 現在も大嘗祭に使用する笠は、この深江から天皇家へ献上されている。また、深江は、皇祖の御神鏡に関係する鋳物師とも関係が深い土地とのことである。鏡作神社(磯城郡田原本町八尾 等周辺)とも関係の可能性がある。

高市黒人の歌は以前に検討していますが、羇旅の歌八首の年魚市潟における歌と近江の歌の間にある点、三河での歌にも棚無し小舟があることから、この場合の四極山と笠縫の島は三河と想定しています。具体的には「東三河の秦氏 その67」を参照ください。

ただ、住吉大社のある住吉津から大和へ通じる磯歯津路(しはつのみち)があり、高市黒人には「東三河の秦氏 その67」で書いたように住吉での歌もあるため、摂津の可能性を完全に否定することはできません。これは余談なので話を元に戻します。

Wikiには「深江は、皇祖の御神鏡に関係する鋳物師とも関係が深い土地とのことである。鏡作神社(磯城郡田原本町八尾 等周辺)とも関係の可能性がある。」との記載があります。これはどのような意味なのでしょう?

田原本町の唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)からは青銅器鋳造関連遺物や炉跡も出土しており、銅鐸の工房があったと推定されています。銅鐸の製造は3世紀に終末を迎え、銅鐸の鋳物師たちが銅鏡の製造に転換し、鏡作郷で鏡の製造に従事したと考えられます。唐古・鍵遺跡に関しては以下の田原本町ホームページを参照ください。
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/03_sightseeing/ruins/karako-kagi.html

Wikiの記事は、そうした経歴を持つ鏡作郷の鋳物師(鏡作部)と笠縫氏が深い関係にあったこと示しています。具体的に見れば、笠縫氏は天照大神の御魂である鏡を守護していたことから、鏡作部との繋がりができたと推定されます。

深江への移住に際し、笠縫氏は鏡作郷の鋳物師を同行させたのかもしれません。深江稲荷神社の通称は鋳物御祖神社である点、伊勢神宮の式年遷宮において深江の鋳物師が御神宝鏡を製作して奉納している点などは、その傍証とも言えそうです。遠い過去の記憶が現代における神宝鏡の製作に繋がっていたとしたら、本当に凄いことだと思えます。

さて、笠縫邑の笠縫氏が鏡作神社の鏡作部と関係があるなら、当然笠縫氏は鏡作神社近くに居住していたと考えられ、このことは笠縫邑の所在地が現在の秦楽寺周辺(鏡作坐天照御魂神社から南へ約2㎞に位置する)である証明の一つになり得ると考えられます。深江稲荷神社の笠縫氏は別としても、鏡に関係する鏡作坐天照御魂神社が秦楽寺のほど近くに鎮座していると言う位置関係自体が、元伊勢第一号=秦楽寺一帯の根拠の一つとなります。

次に笠縫氏は菅笠を作るのを生業としていました。菅笠の原材料となる菅は水辺や湿地帯に生育することから、当時は水辺か湿地だった深江の地に移住したものと推定されます。仮に三輪山の北西側山麓に鎮座する桧原神社が笠縫邑だったとすれば、菅の採取には不適な場所となります。(注:白水社「日本の神々」第4巻の桧原神社の項には神社の西方約800mの奈良街道の傍らに、是ヨリ東笠縫里云々と記した標石がある、との記事があります。その場所が仮に笠縫邑だったとしても、山中深く分け入った神域まで村とは考えられません)

一方秦楽寺のある田原本町秦庄の場合、奈良盆地はかつて広大な湖だったことから、当時でも低湿地帯であった可能性があります。田原本町秦庄は当時菅を採取するにのに適した場所だったのです。秦楽寺境内に鎮座する笠縫神社(多神社の境外末社で祭神は天照大神)はそうした位置関係、社名、祭神からしても、笠縫邑の比定地になると推定されます。これで十分根拠は示せたと思われますが、別の視点からも見ていきましょう。

まず大神神社は三輪山そのものを神体山として祭祀する神社です。その摂社で、笠縫邑の最有力候補である桧原神社は、「大和志料」によると桧原山を神体山としており、鏡や太陽信仰とは関係ありません。(注:現在は三輪山の中にある磐座をご神体としているようです)言い換えれば、神社のありようが大神神社と同じになり天照大神とは無関係なのです。

これに対し、元伊勢第一号の笠縫邑候補地でもある多神社は三輪山から昇る太陽を祭祀しており、三輪山山頂に昇る春分と秋分の朝日を拝する位置に鎮座しています。さらに多氏系の子部の祖が天火明命(=天照御魂=鏡)となり、多神社の神官に天火明命を祖とする竹田川辺連がいて、竹田川辺連の祀る竹田神社が多神社の若宮になっています。多神社の多氏は以上から太陽信仰と天火明命に関与し、天照大神に接続する要素を有しているのです。と言うことで、秦楽寺に鎮座する笠縫神社をその境外末社とし、太陽信仰に関係する多神社を見に行きましょう。


多神社の位置を示すグーグル地図画像。鎮座地:磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569

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多神社の森。

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北側の森の中に古墳のような円丘がありました。

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円丘を祀っているように見える社。

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解説板。円丘は神武塚と称されているようです。

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多神社の鳥居。

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拝殿。

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本殿。春日造の社が4棟並んでいます。

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解説板。太安万侶を除く4神が本殿で祀られています。

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多神社前の東西に延びる道から見る三輪山。

この道を東に進んだ先に鳥居があり、鳥居の中に三輪山が収まる形となっています。多神社は三輪山山頂に昇る春分・秋分の朝日を拝する太陽信仰の神社で、大和岩雄氏は同社について、三輪山から昇る太陽祭祀の聖地としています。でも、何故多神社は太陽祭祀に関係するのでしょう?ネットでよく取り上げられる北緯34度32分の東西ラインは「太陽の道」と称され、春分と秋分の日の出、日没ラインとなります。

多神社は北緯34度32分08秒にあり、正に太陽の道のライン上に鎮座していることになります。三輪山は北緯34度32分06秒に位置し、二上山は北緯34度31分で、雄岳が北緯34度31分32秒、雌岳は北緯34度31分20秒となり、多少のずれはあるものの、三輪山、多神社、二上山は太陽の道で結ばれていると言い得ます。これらから、奈良盆地のほぼ中央に位置する多神社は太陽祭祀の聖地とされているのです。

田原本町のホームページによれば多神社鎮座地には大規模な遺跡があるそうです。詳細は以下引用します。

多遺跡は、奈良盆地のほぼ中央、標高約55mの沖積地の微高地上に存在する。弥生時代から中世に至る時期の大規模な遺跡である。遺跡の中心部には式内社・ 多坐弥志理都比古神社(多神社)が所在する。多遺跡は、弥生時代の拠点的な環濠集落で、環濠に囲まれる範囲は、長軸350m、短軸300mと推定されている。これまでに19次に及ぶ調査が実施され、弥生土器、木器、銅剣などが出土している。

ホームページは以下を参照ください。
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/03_sightseeing/ruins/oh.html

この記事から、太陽信仰の中心地である多神社一帯は実に古い歴史を有する地であると理解されます。次回も秦楽寺一帯が元伊勢第一号の笠縫邑である点の論証を続けます。

                  尾張氏の謎を解く その34に続く
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