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尾張氏の謎を解く その34

尾張氏の謎を解く
01 /18 2015

前回で書いた多神社だけでなく鏡作郷に鎮座する各鏡作神社も太陽信仰に関係し、石見の鏡作神社からは三輪山山頂に昇る冬至の日の出を拝することができ、日の出ライン上には他田坐天照御魂神社が鎮座しています。つまり、多神社から鏡作坐天照御魂神社にかけての一帯は太陽信仰の地であり、両神社に挟まれたような位置にある秦楽寺周辺も太陽祭祀に関係があると見て間違いなさそうです。

天照大神を祭神とする笠縫神社が多神社の境外末社で秦楽寺の境内に鎮座していることは、秦氏と多氏の関係を物語っています。大和岩雄氏も「古事記と天武天皇の謎」(ロッコウブックス)で多氏と秦氏は密接だとしています。飫富(多)郷の範囲内に秦庄があるほど地理的に両者は密着しているので、それも当然でしょうね。

秦氏は死と再生を司る一族であり、太陽の死と再生を介して天照大神に接続する回路を持っています。このため、山城国の木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や河内国高安郡に鎮座する天照大神高座神社などには秦氏の影響が見られます。天照御魂とは鏡作坐天照御魂神社で見てきたように、鏡を意味しています。

多氏の太陽信仰、秦氏の太陽の死と再生、鏡は太陽と天照大神を象徴する、笠縫は丸い菅笠で太陽を象徴し日神信仰と関係するなど、太陽信仰に関連する神社(多神社、秦楽寺境内の笠縫神社、鏡作坐天照御魂神社など5社の鏡作系神社)が全てほぼ同じエリア内に存在している以上、その中心に位置する秦楽寺一帯を元伊勢第一号の笠縫邑とするのは妥当な判断だ言えるでしょう。

一方、最有力候補の桧原神社を元伊勢第一号の笠縫邑とした場合、秦楽寺一帯と比較して致命的な欠点があります。今まで何度か書いたように、太陽神・天照大神の御魂は鏡であり、鏡は太陽(太陽神)を象徴するものです。よって、宮中を出た天照大神の御魂=八咫鏡のコピーは鏡作郷内で製作されました。多神社から鏡作坐天照御魂神社に至るエリアは、季節の節目に三輪山から昇る太陽を遥拝する太陽祭祀の地であること、その地には必然的に鏡作部がいることからこの地で八咫鏡のコピー作られたのです。

では、桧原神社の場合はどうでしょう?桧原神社からでは三輪山に昇る朝日を遥拝できないし、鏡作部も周辺には存在しません。この問題をクリアしない限り、桧原神社を元伊勢第一号の笠縫邑とは言えないのです。と言うことで、笠縫邑比定地をWikipediaより以下引用します。

檜原神社(桜井市 三輪)、多神社(磯城郡 田原本町多)、笠縫神社(磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅)、笠山荒神社(桜井市笠)、多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社(桜井市金屋)小夫天神社(桜井市小夫)、穴師坐兵主神社(桜井市穴師)飛鳥坐神社(高市郡 明日香村飛鳥)長谷山口坐神社(桜井市初瀬手力雄)、等々。

赤字で書いた神社は全て山麓・山中にあり、朝日を遥拝するのには不適な場所となります。「その32」にて「古代の人々もここから二上山に沈む夕日を遥拝したのでしょうね。でも…、そのことに大きな疑問を感じませんか?」と書きました。理由はもうおわかりですね。夕日を拝する地が季節の節目に三輪山に昇る太陽を祭祀する太陽信仰の場とはならないのです。

青字の飛鳥坐神社に関しても、小さな丘陵の西側麓に鎮座しており朝日を遥拝するのには多分不適と判定されます。すると残るのは、驚いたことに太陽信仰に関係する多神社とその摂社・末社のみになってしまうのです。 元伊勢第一号の笠縫邑候補地は以上から多神社、笠縫神社、姫皇子神社の3社に絞られました。3社の内鏡作坐天照御魂神社に最も近いのはどこでしょう?言うまでもなく笠縫神社となります。

八咫鏡のコピーとその試作鏡(=天火明命)は、鏡作坐天照御魂神社の由緒によると鏡作郷内或いはその近辺で製作されました。よって、八咫鏡(=天照大神)のコピーを製作するため崇神天皇の皇女・豊鋤入姫命が最初に立ち寄ったのは、太陽信仰の地である多神社と鏡作坐天照御魂神社に挟まれた秦楽寺一帯であり、そこが笠縫邑とならざるを得ないのです。

酔石亭主は見ていませんが多神社の参拝の栞によると、神社の北に『元伊勢』笠縫邑跡があったこの地は、天照大御神を崇め奉り、神に仕えている巫女の集落だったとのこと。ネット情報によれば、その場所は多神社の北1㎞程の所で、小さな森の中に注連縄を掛けた石がお祀りされているそうです。この情報が正しいとして、位置的には秦楽寺の西側数百メートルの場所になります。

そうした場所が実際にあるのか、グーグル画像でチェックしても残念ながら判別は付きかねます。けれども、この情報が正しいとすれば秦楽寺一帯が笠縫邑とする根拠の一つにはなり得るでしょう。多神社には、笠縫邑は後に桧原神社に遷ったとの伝承もあるようです。折衷案的な匂いもしますが、仮にその通りだとしても、元伊勢第二号の笠縫邑にしかならず、第一号の笠縫邑が秦楽寺一帯となる点に変わりはありません。

既に書いたように、八咫鏡のコピーを製作するには鏡作りの技能民がいる場所にオリジナルの鏡を持ち込んで示す必要があり、この点からも秦楽寺周辺を笠縫邑に比定するのは妥当性があると考えられます。上記した論点の全てを否定する根拠が提示されない限り、元伊勢第一号の笠縫邑は桧原神社やその他の候補地ではなく、秦楽寺一帯となるのです。

長い検討となりましたが、これで元伊勢第一号の笠縫邑は笠縫神社の鎮座する秦楽寺一帯で確定しました。

なお、宮中を出た神様は天照大神だけでなく、倭大国魂神もいました。倭大国魂神の霊代は八尺瓊勾玉で、秦楽寺遺跡はその出土物から玉作り工房があったと推定されています。秦楽寺遺跡は5世紀後半から6世紀前半の遺跡とされているので崇神天皇の時代よりはかなり遅くなるのですが、倭大国魂神の霊代となる八尺瓊勾玉のコピーもこの地で作られたのかもしれません。

また唐古・鍵遺跡においても、玉作りに関連する遺跡やヒスイの勾玉が出土しています。オリジナルの八尺瓊勾玉がここで作られたとしたら、一層面白くなりそうです。まあ、これらは単なる想像に過ぎませんが……。

                  尾張氏の謎を解く その35に続く
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酔石亭主

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