若狭探訪 その2


前回、遠敷明神を秦氏繋がりで見ていくと書きました。そう言えば下根来出身の良弁にしても、父親は秦常満で、白石神社の神官だったとされています。鵜之瀬資料館長の原さんは良弁の末裔とのことで、代々原井太夫を名乗っておられます。この方が秦氏の末裔かどうか証明できるのでしょうか?

お名前から見ていくと、原姓は秦氏の系統で秦原公の後とされています。もちろん別の系統の原姓もありますが、状況的に見て秦氏の流れと考えるのが妥当なように思えます。下根来の原姓は3人おられ、白石神社脇の一軒と山側の2軒となります。一般的に古い神社の宮司家は、自分たちの祖先を神様として祀っています。これらからも、遠敷明神は秦氏と密接な関係を持っている、或いは秦氏の神とも理解されますね。神社の前には根来周辺案内図がありました。

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根来周辺案内図。

この案内図に八百比丘尼の墓があります。八百比丘尼は下根来の秦道満の子(または秦勝道の子)とされ、色が白かったことから白比丘尼とも呼ばれていました。この名前は多分、白石比丘尼が転じたもので、遠敷明神を祀る白石神社の巫女だったことに由来するものと思われます。

秦氏は新羅からの渡来人(新羅を経由して渡来した渡来人)とされ、確証はないものの白石の白は新羅(しら、しらぎ)に由来する可能性があります。以上から、下根来の白石神社一帯は秦氏の影が濃厚に残っていると理解されます。

下根来の八百比丘尼は遠敷明神と関係し、遠敷郡は7世紀後半の評制の時代小丹生評(おにゅうのこおり)と表記されていたものが、713年(和銅6年)の好字二字令により、遠敷に変えられました。小丹生評は、藤原宮跡出土の木簡に「若佐国小丹生評木ツ里」、「若狭国小丹生評岡田里」などと記載あることからも確認されます。

そして小丹生は、水銀の原料である赤土(丹土、辰砂)を意味しています。水銀は不老不死や死と再生に関係することから、小丹生の地で誕生した八百比丘尼が八百歳まで生きたとの伝承に繋がったものと思われます。今まで何度か書いていますが、秦氏は死と再生を司る一族で、水銀とは深い関係があります。下根来におけるあらゆるキーワードが秦氏を志向しているように思えてきませんか?

一方、小浜市男山の空印寺にも八百比丘尼の墓があり、これは多分、小浜の海岸に住んでいた漁師・道満の娘が流れ着いた妙な魚を焼いて食べてしまい、それが人魚の肉だったのでいつまでも年をとらなかったと言う伝説に関係していそうです。

空印寺の詳細は以下の若狭おばま観光協会のホームページを参照ください。

http://www.wakasa-obama.jp/TouristAttract/TouristAttractDetail.php?47

上記の八百比丘尼伝説は、遠敷明神や水銀と関係する八百比丘尼とは別系統の伝説のように思えます。この辺の事情を少し探ってみましょう。

若狭彦神社の祭神・若狭彦大神は彦火々出見尊(山彦)ともされ、若狭姫神社の祭神・若狭姫大神は豊玉姫命(乙姫)とされています。若狭のお隣の丹後には浦島太郎の伝説があり、浦島は龍宮城を去るに当たり乙姫から玉手箱を貰い受けます。浦島が地上に帰ると既に数百年が経過しており、彼が玉手箱を開けると煙が出て、煙を浴びた浦島は年寄になってしまいました。この話も長寿に関係し八百比丘尼と共通するものがあり、大浦半島の西側には大丹生の地名(京都府舞鶴市大丹生)があります。


大丹生の位置を示すグーグル地図画像。

つまり、二つの八百比丘尼は一方が秦氏系の要素を持ち、もう一方が海人系の要素を持っていることになります。同様に、若狭彦神社と若狭姫神社も二つの要素を持っているため、祭神が若狭彦大神(彦火々出見尊)、若狭姫大神(豊玉姫命)と記載されているのです。

ただ、鎌倉時代の若狭秦文書には海産物に関係する内容が記載されています。これは後代の秦氏が水産業や製塩業に進出した事実を示しており、興味深いものがあります。逆に言えば、もっと古い時代に秦氏は水産業に進出し、海人系との繋がりができた結果、海人系が秦氏の影響を受け、漁師・道満の娘云々と言った伝説が成立したとも思われます。秦家文書には、例えば以下の記述があります。

多烏浦海人等所定補刀祢職事秦武成 右以人為彼職、浦御菜等無懈怠可弁済、為彼武成沙汰、如本海人等沙汰居汲部浦、同公事無懈怠可致沙汰之状如件、
  寛喜三年正月廿一日      藤原(花押)


多烏浦は現在の小浜市田烏(たがらす)になります。上記文書は、多烏浦の浦御菜(海産物)に関して、刀祢(とじ、村や里の有力者)に補任された秦武成が負担することを命じた内容となっており、寛喜3年は西暦で1231年になります。これに近い時代では、寛元元年(1243年)に秦助武が須那浦山の山預職に任じられ、塩や便宜御菜を納めると書かれています。


小浜市田烏方面を示すグーグル地図画像。画像のさらに北側も田烏となります。

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対岸の阿納から見た田烏湾と田烏方面。

以前「秦さんはどこにいる?その8」において以下のように記載しています。

平城宮跡出土の木簡には、遠敷郡の秦人に関する記載が見られます。例えば、「若狭国遠敷郡 青里戸主秦人麻呂戸 秦人果安御塩三斗 天平勝宝七歳(755年)八月十七日量豊嶋」などです。若狭国遠敷郡青里は現在の高浜町青郷地区に相当します。

なお木簡には、「若狭國遠敷郡青里御贄多比鮓壹□」「秦人大山」と記されたものもあります。多比鮓(=鯛の鮨)を献上したことを示すもので、日本における最古の鮨の記録です。以上から、鮨の始まりは青里に居住していた秦氏だったと考えられます。

お水送りは白装束の咒師(すし)と呼ばれる僧が呪文を唱えながら水を渕へと注ぎ込みます。咒師とは秦氏系の陰陽師だったのではないでしょうか?咒師(すし)が献上したから鮨(すし)になったとか…。そう言えば稲荷寿司も秦氏に関係が…。(あまりいい加減な説は書かない方が身のためかも…)

他には「□敷郡 青郷川辺里 庸米六斗 秦口」、「若狭國遠敷郡玉置郷 田井里秦人足結庸□粟六斗」、「若狭國遠敷郡 青郷秦人安古御調塩三斗」などがあります。滋賀県高島郡の遺跡からは「遠敷郡小丹里秦人足嶋庸米六斗」の木簡が出土しています。なお、ワードにない文字や欠けた文字は□にして省いていますのでご了承ください。

以上、遠敷郡の様々な産品が秦氏の手で献上されているとわかります。「若狭國遠敷郡青里御贄多比鮓壹□」にあるように、遠敷郡青里は「贄」を献上するための特区であり、その任に秦氏が当たっていたのは間違いありません。

上記だけでも若狭一帯に居住する秦氏の密度が推定されます。木簡の青里、青郷は現在の大飯郡高浜町青に当たり、ここには青海神社が鎮座しています。詳細は以下の玄松子さんのホームページを参照ください。

http://www.genbu.net/data/wakasa/aomi_title.htm

解説板には驚くような記述がありました。

青郷の人々の祖先である青海首は海部と呼ばれる海に関る人々であり、御祭神椎根津彦命の末裔でありますが、海部を御統治された第十七代履中天皇の皇女飯豊青皇女(青海皇女)が御祭神を慕われ御祀りになられたと伝えている。現在、御本殿後方の窪池は、飯豊青皇女の禊池と伝えている。古代の青郷は現在の地域よりもはるかに広く、現在の青郷は元より高浜町の内浦地区、京都舞鶴市の大浦地区をも含み、当神社は若狭丹後国にわたるこの地域の総鎮守の宮であります。

飯豊青皇女は尾張氏の謎解きでも登場しますが、彼女を祀る角刺神社(つのさしじんじゃ)は忍海角刺宮の跡地に創建されています。忍海と若狭を結ぶ回路が遠い過去にあり、それが青海神社の創建に繋がったのではないでしょうか?この辺はいずれ丹波編で検討します。角刺神社の詳細は「尾張氏の謎を解く その7」にて書いていますので、参照ください。

もう一つ驚かされた点は、「古代の青郷は現在の地域よりもはるかに広く、現在の青郷は元より高浜町の内浦地区、京都舞鶴市の大浦地区をも含み」とある部分です。舞鶴市の大浦地区は古代の丹波国のはずで、和銅6年(713年)に分割されて丹後国加佐郡の一部となるはずですが、若狭の領域に含まれていた可能性が出てくるのです。

或いは、古代における若狭と丹波の領域は曖昧であったのかもしれません。遠敷郡はかつての小丹生評でしたが、それと呼応するかのように大浦半島に大丹生の地名があるのです。こうした関連性をどう考えればいいのか、なかなか難しくも面白くもあります。

なお福井県神社庁のホームページには同社の由緒が記載されており、一部分を引用します。

本居宣長翁の古事記伝には「履仲天皇の子(一説には孫)と言われる飯豊青海皇女を祀る」とも註記している。鎮座地の青は、平城宮址出土木簡に「青里」「青郷」と記されている如く、古来朝廷の大贄の貢進地であり屯倉であったと推測され、皇女との深い繋がりが考えられる。若越小誌には、「履仲天皇の青海皇女は飯豊皇女又、飯豊青皇女とも云ひ、若狭に御名代りの地を有せられり。阿袁郷即ち是にして、其郷名之より起る」とある。現在社殿後方、関屋川に近い窪地は、「禊池」と言い、飯豊青皇女の禊をされた涌泉の遺址と伝え、池水替え神事が七月一日に当年の禰宜役により実施される。
又、この他から北西方向を望めば、泰澄大師が開山されたという、霊峰青葉山が真近に聳えている。神社と山を結ぷ線上には、石剣石戈出土地や前方後円墳も所在する。往古、青葉山麓を中心として丹後国加佐郡の東西大浦地区(現・京都府舞鶴市)にも及んでいた。


泰澄大師が霊峰青葉山を開山されたとありますが、泰澄は養老年間(717年~724年)に加賀国白山から青葉山に来て、妙理大権現を青葉山頂に祀ったとされています。そしてご存知のように、泰澄は秦氏とされています。泰澄が青葉山を開山したことと、山の麓に秦氏が数多く居住していることの間には明確な繋がりがありそうです。福井県神社庁のホームページは以下を参照ください。

http://www.jinja-fukui.jp/contents/list.php?act=view&id=2141


大飯郡高浜町青の位置を示すグーグル地図画像。

泰澄に関してさらに検討するため、前回アップした若狭神宮寺の由来を見ていきます。「遠敷明神の直孫和朝臣赤麿公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となった。」の部分です。

ナガ族とは蛇族のことでしょうか?よくわかりません。ナガ族は長尾明神として山上に祀られたとのことですが、この山は長尾山で現在の多田ヶ岳に当たり標高712m。遠敷川の西側に聳えています。鵜の瀬から若狭姫神社に至るまで、多田ヶ岳の遠敷川沿いに存在していることから、その重要さは見て取れます。


多田ヶ岳の位置を示すグーグル地図画像。

一方「若州管内社寺由緒記」には、ほぼ同様の内容として以下のように書かれています。

霊応山根本神宮寺は元正天皇之勅願寺也。和同年中に山上に雲起り雲中に鈴之音有り。国民あやしむ。粤に沙門滑元鈴之音に感して、此地に而修練す。七ヶ日を歴て、当山岩之上に鈴幡降る。神名帳に長尾明神有り。其鈴当寺之宝物として今にこれ有り。

内容的にはどちらもほぼ同じなのに、登場人物が赤麿と沙門滑元で異なっています。妙ですね。頭を悩ませながら「若狭国遠敷郡神宮寺縁起」を見た所、滑元の身元が判明しました。

若狭国遠敷郡神宮寺縁起 当山旧記曰、若狭国遠敷郡霊応山根本神宮寺者、元正天皇為勅願、和銅七年甲寅、沙円滑元草創也、尋其来歴、同年中当山南嶺油然靉霊雲、忽鈴音響雲中、経七日不止、州人恠之、于時有沙門滑元、々者越泰澄法師徒也、常帰仏乗、於此地多年練行、滑元感雲中鈴音、祈天神、不幾鈴幡自天降当山南嶺長尾岩上、依其岩上卜禿祭神、号長尾明神、…以下略。

いかがでしょう?滑元は泰澄の弟子とされ、ここでも泰澄が関係していました。若狭神宮寺(神願寺)を創建したのは、赤麿と滑元のどちらなのかなおも悩ましいところですが、事績が同じことから両者は同一人物の可能性があるとしておきます。ちなみに、「類聚国史」の天長6年3月乙未条には「神身離脱・神宮寺」の記述があり神願時の創建は赤麿になっています。

内容はかなり奇妙で、養老年中(717年~724年)に疫病や災害が多発し、赤麿が修業していると若狭彦大神が人の姿で現れ、神様の身でいるのはつらいので仏道に帰依し、神道より離脱したい。この願いがかなわなければ災いを起こす。と告げたので、赤麿は直ちに道場を建て、神願寺と号して大神のために修行したと言うものです。

ここまで遠敷明神を秦氏との関係で検討してきました。浮き彫りにされたのは、若狭国における秦氏の影響力です。ただ、遠敷明神と秦氏の関係に関しては一つの視点から切り取ったものであり、別の視点から見るとまた別の風景が広がっていそうにも思えます。そうした点も含め、若狭神宮寺の由来に関してはまだまだ検討必要事項が多くありそうなので、次回以降も見ていくこととします。

                        若狭探訪 その3に続く
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