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若狭探訪 その1


桜の花咲く暖かな季節が到来したので、尾張氏の謎解き丹波編も書き始めたいと思い、若狭から丹後方面に行ってきました。本来なら丹後から書き始めるべきでしょうが、今回のシリーズは見所たっぷりの若狭を中心に書いています。尾張氏の謎に関係する丹波編は、さらに何度かの訪問が必要となるのでまだ先の話となりそうです。

若狭はシルクロードの日本における玄関口で、大陸や朝鮮半島から様々な文化や文物が流入し、独特の文化が形成されました。一方、小浜駅前の観光案内所で頂いたガイドマップは、若狭小浜を御食国(みけつくに)と形容しています。これは若狭小浜が、奈良時代以前から天皇家の食料である御贄(みにえ)を献上していた国だったからで、今でもおいしそうな海の幸が豊富だろうと期待しています。

食料のみならず、若狭は清らかな水が豊富で、訪問したお寺や神社はいずれも瑞々しい苔に覆われていました。また、奈良東大寺二月堂のお水取りに対応するお水送りが若狭での行事であることも、豊かな水の国である証と言えそうです。お水取りに関しては既にご存知の方も多いと思いますが、大略以下の通りです。

時は天平勝宝 4年(752年)のこと。インドから留学した東大寺の僧・実忠が二月堂の建立に際し、修二会を催して全国一万三千七百余座の神々を招きました。ところがです。二月堂縁起によれば、若狭の国の遠敷明神(おにゅうみょうじん)だけが、遠敷川での漁に熱中するあまり遅参してしまいます。

これを痛み入った遠敷明神は、二月堂の脇に香水を出して奉るとお詫びを申し述べ、黒白二羽の鵜を岩の中から飛び出させました。するとあら不思議、その跡からこんこんと清水(お香水)が湧き出してきたのです。この香水が湧き出した場所が閼伽井(あかい、若狭井)で、遠敷明神は香水を十一面観世音菩薩に奉ったそうです。


上記の伝説に基づき、毎年3月2日、遠敷川上流の鵜の瀬において若狭神宮寺の僧と修験者らによってお水送りの神事が行われ、お香水が鵜の瀬に注がれます。香水はその後、10日をかけて奈良東大寺二月堂の若狭井に届くとされています。なお、閼伽とは神や仏にお供えされる水を意味し、閼伽井はその水を汲み出す井戸となります。

では、遠敷明神とはどんな神様なのでしょう?この神を通して若狭をより深く理解できそうですが、登場したのが752年ではかなり新しい時代になってしまいます。多分遠敷明神はもっと古い時代の神のはず。となると、古い時代から新しい時代へと時系列的に見ていく必要がありそうです。それらを知るために若狭神宮寺で頂いた由緒を参照します。

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若狭神宮寺の由来。やや読みにくいので、以下に書き出します。

若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラ(都)が訛って宛字されている。この地方が若狭の中心で白鳳以前からひらけ、この谷は上陸した半島文化が大和(朝鮮語でナラともいう)へ運ばれた最も近い道であった。それは対馬海流にのってきて着岸した若狭浦の古津から国府のある遠敷(おにふ=朝鮮語ウォンフ-「遠くにやる」が訛った)や根来(ねごり=朝鮮語ネ、コ-リ「汝の古里」が訛った)と京都や奈良が百キロほどの直線上にあることである。
この地方を拓き国造りした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、都へ近道の起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫和朝臣赤麿公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となったその秋には、紀元一世紀頃唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の道場にされた。これが若狭神願寺の起源で鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
又、神願寺の開山赤麿(和氏)公は白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い、当寺の名僧、義淵僧正(大樹)に「託され、後、東大寺開山良弁僧正になられ、神願寺へ渡来した印度僧実忠和尚が良弁僧正を助けて東大寺を完成し、さらに、二月堂を建て、お水送り行法を始められた。その若狭井の水源が白石の鵜の瀬であるから、白石神社で行ったのを伝え根来八幡宮では毎年三月二日、山八神事を行い、同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜の瀬へお水送り神事がある。

由来の内容に理解できない部分もありますが、じっくりと検討していきます。まずはストーリーの始まりになる部分から見ていきましょう。「紀元一世紀頃唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神」とあります。影向とは神仏が仮の姿をとって現れることを意味します。

つまり一世紀かどうかはともかくとして、遠い昔唐服を着た遠敷明神が根来白石に降臨されたことになります。そして由来によれば、遠敷明神とは若狭国一宮の若狭彦神社祭神・若狭彦大神のことになります。かなりこの神の素性が見えてきましたね。と言うことで、根来白石に行ってみましょう。


白石の位置を示すグーグル地図画像。

鵜の瀬のすぐ南が白石で白石神社が鎮座していました。ここが鍵になりそうな場所と思われるので、早速行ってみることに…。

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グーグル地図にもある白石への橋。

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白石(下根来)の集落。

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橋から鵜の瀬方面を撮影。

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良辨(弁)和尚生誕地の石碑。

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良弁和尚の解説板。

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白石神社。

昼なお暗い鬱蒼とした木々の中に鎮座しています。社殿は覆屋の中ですが、そうしないと湿気で早く傷んでしまうのでしょう。

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社殿前にある木の根元。

ごつごつした数多くの根が苔に覆われて、何とも形容できない姿となっています。

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白石大明神の扁額。

白石大明神とはこの地に降臨した遠敷明神のことで、若狭彦命となります。しかし、なぜ遠敷明神(=若狭彦命)は唐服を着たお姿で下根来に降臨されたのでしょう。そもそも、唐と名が付く場合秦氏に関係する可能性があり、「相模国の秦氏」では、「藤野小渕には秦氏系の三柱神社があり、ここの祭神は唐土明神とされています。」と書いています。若狭には秦氏も多いので、遠敷明神を秦氏繋がりで見ていけばいいのかもしれません。次回はその視点から検討を進めます。

                    若狭探訪 その2に続く
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