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尾張氏の謎を解く その49


残欠の田造郷の中には笠水の項があり笠水彦命と関係しているので、以下に記載します。

笠水は字宇介美都(うけみず)と訓む 一名は真名井で白雲山の北郊にあり、清く麗しいことはまるで鏡のようだ。これは豊宇気大神が降臨された際に湧き出たものである。その深さ3尺ほどである。周囲は122歩。日照りにも涸れず増減もしない。その味は甘露のようで、病を癒す霊力がある。傍に、二つの祠がある。東は伊加里姫命で豊水富神とも称す。西は笠水神で笠水彦命と笠水姫命の二神となる。これらは海部直たちの奉斎する祖神である。

上記に関し、「西は笠水神で笠水彦命と笠水姫命の二神となる。」と書かれた部分から探索を進めます。京都府舞鶴市公文名には笠水神社が鎮座し祭神は笠水彦と笠水姫になります。この神社が笠水の項と関係するのは間違いなさそうなので、早速行ってみましょう。


笠水神社の鎮座地を示すグーグル地図画像。

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笠水神社境内。小さな神社です。

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社殿。

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扁額。

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楠の大木。

豊受大神が降臨した際に湧き出したとされる真名井も近くにありました。


真名井の位置を示すグーグル地図画像。

小河川の道路わきの膨らんだ部分が真名井です。笠水神社は豊受大神の降臨伝説がある笶原神社の南に位置することから、一帯が清らかな水の湧く真名井とされてきたのでしょう。

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真名井。

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解説板。画像サイズを大きくしています。

解説板の地図にはこの水源となる場所も「一升」と言う名前で書かれています。解説板によれば、他にも三合とか五合とか言った水源地もあるようです。と言うことは、一升が最も水量の多い水源になるのでしょう。

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水路の先が水源となります。時間の余裕がなく水源までは行きませんでした。

「勘注系図」の天村雲命注記によれば、彼は天真名井の水を持って日向国に天下り後に丹波国に遷座して、その水を久志比の真名井に注いだとのこと。丹波国には真名井が三ヶ所あり、それが久志比、矢原、伊去奈子だそうです。三か所のどれかが本家・本元の真名井になるのでしょうね。面白そうなので陸耳御笠の追及は一旦横に置き、真名井について探索してみます。

写真の真名井が三ヶ所の一つかどうか何とも言えませんが、矢原が笶原神社に相当し、笶原神社の鳥居に掛けられた扁額には総社笶原魚井匏宮(やはらまないよさみや)とありました。写真の真名井は笶原神社と笠水神社の南に当たり、市内を流れる小河川の上流部となります。以上から、笶原神社―笠水神社―真名井の伝説は基底が同じものとなり一括りに考えても良さそうです。但し、どう見てもこの一帯が本家・本元の真名井とは思えません。ではどこが本家・本元なのでしょう?

久志比は多分籠神社奥宮の真名井神社を意味し、伊去奈子は豊受大神や天火明命、天香山命、天村雲命などが降臨したとされる伊去奈子嶽のはずです。となると、調査もしてない段階で断定はできませんが、伊去奈子が本家・本元のように思えてきます。伊去奈子は丹波における伝説の核心部であり超重要な場所と推定され、後の回でじっくり検討することとします。

と言うことで、久志比である籠神社奥宮の真名井神社と笶原神社の比較・検討をしてみましょう。まずは籠神社の基本部分から見ていきます。籠神社ホームページによれば同社の創建は養老3年(719年)となります。「勘注系図」を見るとこの時代の海部氏には兄弟がいて、海部直千嶋祝、海部直千足、海部直千成の三人となっています。千嶋祝は養老3年から天平勝宝3年までの31年奉仕と記されていることから、籠神社を創建した上で同社の宮司として長い期間勤めていたと推定されます。

さらに千足は丹波直等祖で、千成は養老5年(721年)から天平8年までの15年間笶原神社の祝部の祖として勤めています。この記述により笶原神社の創建は721年頃と理解されます。以上から、丹波国における三か所の真名井の成立順序は伊去奈子(いつか不明だが遠い昔)、久志比(719年頃)、矢原(721年頃)になると推定されます。矢原における真名井は既に書いた田造郷の中に記載あるので、再度掲載します。

田造郷
田造と号した理由は、遠い昔、天孫降臨のとき、豊宇気大神の教えに従って天香語山命と天村雲命が当国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に天降った。天村雲命と天道姫命は共に大神を祭って、新嘗を執り行いたいと欲した。すると井戸水がたちまち変わって、神饌の用意ができなくなった。それ故に、泥(ひぢ)の真名井という。天道姫命は葦を抜き大神の心を占った。故に、名前を葦占山という。天道姫命は弓矢を天香語山命に授け命じて言った。その矢を三度放ち、矢の留まった所には必ず清い土地がある。天香語山命が命を受けて矢を放つと、当国の矢原山(やぶやま)に至った。山には根、枝、葉、が青々としていた。それで、その地を矢原(矢原訓屋布)という。その地に神籬を建てて大神を遷し祭り、懇田を定めた。巽(南東)の3里ほどの方角に霊泉湧き出した。天村雲命はその泉で潅漑したので、真名井と称する。また、かたわらに天吉葛(あまのよさつら、瓢箪)が生えている。その匏(よさ、瓢箪)で、真名井の水を盛り神饌を調進し長く大神を奉った。それで、真名井原、匏宮(与佐宮)と称する。春秋田を耕し、稲種を四方にあまねく蒔いて人民が豊かになったので、その地を田造という。

上記の内容によれば真名井成立の順序は伊去奈子、矢原、久志比になってしまいそうです。けれども海部氏の現実の動きを見ると、伊去奈子、久志比、矢原でほぼ間違いないと思われます。また真名井神社の裏山は天香語山、藤岡と称され、矢原山も同様に天香山や藤岡の名前があります。これは秦氏などによく見られる地名(山名)の持ち運び技であり、久志比→矢原の傍証となりそうです。ただ、書かれた内容には考慮すべき点が幾つかありそうです。

残欠における田造郷の記事は神代の神話となっています。神話は過去に起きた何らかの現実を反映しており、それらを象徴的に書いたもののはずです。だとすれば、田造郷の記事はかつて真名井の本家・本元であった伊去奈子における祭祀(政治や地位を含む)が時代にそぐわなくなったことから、海部氏が笶原神社の鎮座地に移動した経緯を神話の形で記載したものと考えられます。ではこの時代に何が起きたのでしょう?

最も大きな要因は、713年の丹後国分立により国府が現在の天橋立付近に設置されたことです。新たな国府設置により、伊去奈子がローカル化して自分たちの立場が低くなることを恐れた海部氏は、拠点を現在の籠神社鎮座地に移し、その後3兄弟(千嶋、千足、千成)の一人である千成が豊受大神を分祀し、笶原神社を創建したのです。さらに笶原神社を豊鋤入姫命が天照大神や草薙剣、月夜見神を奉斎した元伊勢・与佐宮と設定し、これらの神も祭神に加えたと考えられます。では、海部氏の地位低下を示すような史料はあるでしょうか?

「勘注系図」には3兄弟の前の愛志に関して丹波国造海部直愛志祝と記載されています。ところがその次の3兄弟からは丹波国造が消えています。例えば3兄弟の長男で養老3年から天平勝宝元年まで奉仕した26世(或いは27世)千嶋は海部直千嶋祝と記載されていました。(注:朝廷に提出されている「本系図」では愛志も海部直愛志祝とのみ記されています)以上から、この時代における海部氏の地位はかなり低かった或いは低下しつつあったと想定されます。

それを証明する史料に「続日本紀」がありました。「続日本紀」には丹後国分立の2年前に当たる和銅4年(711年)の記事があって、「大初位上丹波史千足等八人、偽造外印、仮与人位、流信濃国」と書かれています。3兄弟の次男千足は太政官印を偽造すると言う重大な罪を犯し、信濃国に流刑されたことになります。

千足の地位を示す大初位(だいしょい、だいそい)は、従八位または従九位の下であり、丹波史とは多分丹波の令史のことで司・監・署の第四等官である主典(さかん)すなわち決裁権限を持たない雑務吏員を意味します。

3兄弟の前までの海部氏が「勘注系図」記載通り丹波国造だったとしたら、たとえ次男とは言えこの地位の低下には驚かされます。こうした状況に危機感を覚えた海部氏は、権力の中枢と常時接触できるような場所に籠神社を創建したものと思われます。それが現在の籠神社鎮座地(宮津市大垣430)であり、ここは宮津市国分に設置された丹後国府のすぐ近くとなります。

ただ、笶原神社の創建を養老5年(721年)とすればある問題が発生します。風土記の編纂は和銅6年(713年)から始まり、丹後国が丹波国から分立したのも同じ和銅6年です。これらを順に整理すれば以下となります。

風土記編纂と丹後国分立713年→籠神社創建719年→笶原神社創建721年

残欠の記事も713年から編纂が始まったと仮定すれば、田造郷の記述内容が笶原神社の創建である養老5年(721年)より早くなってしまうと言う問題が発生するのです。現実が神話の後追いするなど考えられません。笶原神社の創建に関連する話が神話となるのには、最低でも百年以上の年月が必要なはずです。その場合、残欠も風土記編纂開始から自動的に百年以上時代を下ることになるので、風土記の編纂とは無関係になってしまいます。これは、書かれた内容は別として、時代的な意味において残欠の信頼性が低いことを示す事例になりそうです。この問題を筋が通るように再構成してみます。

「勘注系図」の成立は仁和年中(885年~889年)とされているので、この時点で笶原神社の創建が神話化されたとします。その後、神話化された話が宮司から大衆に伝えられ神話として定着します。いつ頃かは不明ですが、一般大衆に知られるようになった神話が採録され残欠の形で後世に残されます。このように考えれば、神社創建から神話化するまでに百数十年経過する形となりますので何とか辻褄は合いそうです。時系列的に見れば以下のようになります。

笶原神社創建721年→「勘注系図」の成立(885年~889年)―ほぼ同時期に神話化される→その後宮司から民衆に伝えられ、採録されたものが残欠の形で残った

三か所の真名井から海部氏の動きが少し見えてきたのは収穫です。神社も政治と無縁ではいられなかったのですね。ただ、彼らの存在はもっと奥深いと思われるので後の回で詳しく検討したいと思います。真名井に関係する記事が長くなりすぎたので、陸耳御笠と関係しそうな笠水彦命、笠津彦命の検討は次回とします。

           尾張氏の謎を解く その50に続く
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