尾張氏の謎を解く その67


前回で書いたように、「丹後舊事記」には海部氏の「勘注系図」に登場する大矢田宿禰が海部の矢須の里を国府としたとあり、記述内容からすると古代の丹波国国府がこの地にあったことになります。海部氏が初期丹波国の国府を海部の里に置いたとすれば、この地が海部氏と丹波の歴史を知るうえで極めて重要であると理解されます。

けれども現段階では、海部の里において海部氏の存在感はあまりにも薄く、確固たるものがありません。この相反する状況をどう考えればいいのか実に悩ましいところです。「熱田太神宮縁起」によれば、海部は尾張の別姓とのことで、海部氏の存在感は尾張氏の存在感にも影響を与えてしまうのです。よって今回は、海部の里において海部氏の存在を明確に示す痕跡がないか調べることとします。

川上の庄一帯で海部氏の痕跡を探した結果、陵神社(みささぎじんじゃ)が有力候補として浮上してきました。社名から古墳の存在が推定され、期待感も高まります。早速行ってみましょう。


陵神社の位置を示すグーグル地図画像。ここも橋爪(矢須田邑)に含まれます。

224_convert_20150629083832.jpg
陵神社の鳥居。ほとんどの神社に長い石段があるので疲れます。

225_convert_20150629083925.jpg
石段をえっちらおっちら登ります。

226_convert_20150629084016.jpg
拝殿。本殿は覆屋に覆われています。

227_convert_20150629084105.jpg
本殿。

228_convert_20150629084204.jpg
境内社。

同社の概要を近代デジタルライブラリの「京都府熊野郡誌」から探ってみます。コマ番号236、237に詳しく書かれていました。

陵神社 村社 海部村大字坂井小字永助鎮座
案ずるに神服連海部直を祀れるものの如し。
古老の口碑によれば、往古字海士より神社に達する道路あり、其の中間鳥居崎といへる小字ありて、現今耕地となれるも尚鳥居の柱石と認むべきもの一個を存せり。字海士は海部直の子孫の居住地にして、子孫代々祝を職とし、当社に奉仕せりといふ。尚現今境内社の一たる一宮神社は、元ブレウ島に鎮座ありて丹後の一宮たりしが、中世府中に移転せる処なりと口碑に存すれど、そは神職たりし海部氏が当社より、養老年間与謝郡府中に転し、丹後の一の宮即ち籠神社に奉仕せるより起れる誤伝にして、神社の移転説は文書の徴すべきものなく、神社の資料たる古来の文献に照し根拠なきが如し。陵神社の御祭神は丹波道主命を奉祀し、山頂の古墳は、道主命の墳墓にして、西麓宮の谷なる部落は御陵守なりきといひ伝ふ。されど伝説其の他四囲の事情を考察するに、何れも確証を得ざれば断定する能はざれど海部直の子孫が神職として奉仕し、海部直の館跡所在地たる字海士より通路ありといひ、海部直は孝霊六世の皇孫なれば、陵といふ社名にも適へるより考ふれば神服連海部直の奉斎せりと見る方真に近きが如し。暫く伝説を記して後証に竢つ。


長い由緒で読みにくいため、内容を現代文で簡潔に纏めてみます。

海士は海部直の子孫の居住地であり、往古は海士から陵神社へと達する道があった。海部氏は子孫代々祝を職として当社に奉仕していた。陵神社の境内社・一宮神社はかつてブレウ島に鎮座していた丹後の一宮であり、中世に府中に移転したとの口碑がある。しかしそれは、神職である海部氏が陵神社より養老年間に与謝郡府中に移住して丹後の一の宮即ち籠神社に奉仕することになったことから起きた誤伝である。陵神社の御祭神は丹波道主命で山頂の古墳はその墳墓と伝えられるが確証はない。陵神社は神服連海部直の奉斎した神社と見るのが真実に近そうだ。

上記の内容は海部氏について理解する上で極めて重要と思われます。具体的には原文の赤字で書いた部分を参照ください。由緒によれば、海部氏は久美浜町海士(海部の里)に700年代の初め頃まで居住しており、代々陵神社の宮司を務めていたようです。その後養老年間(717年~724年)になって、現在の籠神社鎮座地に移ったことになります。この由緒の内容が正しいかどうか、別の資料にも当たってみましょう。

籠神社によれば同社の創建は養老3年(719年)となっています。「古代海部氏の系図」に掲載された「勘注系図」原文の写真を見ると、始祖彦火明命の左横に、「養老三年己未三月廿二日籠宮天下給」と記載あり、原資料によってもこの時点が同社の創建年であると確認されます。(注:養老三年云々の記載は平安時代の加筆とされています)

従って、熊野郡誌にある陵神社の由緒と「勘注系図」の内容は一致しており、719年時点で海部氏は海部の里(久美浜町海士)から現在の籠神社鎮座地に移ったとの記載は正しいことになります。なお、海部氏の「勘注系図」と「本系図」を比較すると、この時期における祝(はふり、宮司)の奉仕時期に違いが見られます。

「本系図」では海部直伍佰道祝が養老元年まで奉仕し、続いて海部直愛志祝が養老3年から奉仕となっています。「勘注系図」では海部直愛志祝が養老元年まで奉仕し、海部直千嶋祝は養老3年から奉仕と書かれています。奉仕時期にずれがあるものの、両方の系図とも養老元年から養老3年の間が空白となっています。従って、この空白が移転のための準備期間であったとすれば、系図の骨格部分は正しいと理解されます。

「勘注系図」には彦火明命が養老3年に籠宮に天下ったとの記載ありますが、もちろんこれは天火明命がその時点で実際に天下ったのではなく、海部氏が天火明命を現在の籠神社鎮座地に勧請したことを意味しています。

但し、籠神社のホームページなどによると、同社は奥宮真名井神社の地から現在の籠神社鎮座地に遷座されたことになっています。久美浜町海士から移住したことになると何か都合が悪い事情でもあったのでしょうか?籠神社のホームページを見てもこの点には全く触れられていません。籠神社が海士からの移住に触れていないのは、同社が豊受大神と天照大神の元伊勢与佐宮であるとする主張に大きな問題が生じるからではないかと思われます。

第81代海部穀定氏は「元初の最高神と大和朝廷の元始」で、籠神社の奥宮真名井神社を豊受大神の元伊勢与佐宮と強く主張しています。それが事実であるなら、海部氏は豊受大神が丹波国に天下った古代の非常に早い段階から既に真名井神社の祭祀を司っていたことになります。

さらに崇神天皇の御代には天照大神が笠縫邑から丹波国の与佐宮に遷座し、雄略天皇の22年には豊受大神が伊勢に遷座して外宮に祀られました。海部穀定氏は天照大神の元伊勢与佐宮に該当するのは奥宮真名井神社しかないとして、籠神社は元伊勢籠神社・古称与佐宮と称している訳です。

ところが、「勘注系図」と整合する「京都府熊野郡誌」の記述によれば、海部氏は養老年間まで海士に居住して、祖先が眠る地に創建された陵神社の祭祀を司っていたことになり、彼らの重要な主張が崩れてしまう結果となるのです。海部氏の系図からこの辺の情勢を探ってみましょう。

丹後国一宮・籠神社の宮司家に伝わる「本系図」と「勘注系図」はいずれも国宝に指定されており、「本系図」(正式名称は「籠名神社祝部氏系圖」)は直系の宮司だけを代々記載した竪系図です。「勘注系図」(正式名称は「籠名神宮祝部丹波國造海部直等氏之本記」)は「本系図」で省かれていた4世孫から17世孫までも記載し、加えて膨大な量の注記があります。信頼性の高い海部直都比以降の系図は「勘注系図」によれば以下となっています。

児丹波国造海部直都比―児丹波国造海部直縣―児丹波国造海部直阿知―児丹波国造海部直力―児丹波国造海部直勲尼―児丹波国造海部直伍佰道祝―児丹波国造海部直愛志祝―児海部直千嶋祝、弟海部直千足、弟海部直千成―以下略

系図では、伍佰道(いほじ)が大化元年(645年)から庚辰年(天武天皇9年、680年)まで35年間奉仕し、愛志(えし)は辛己年(天武天皇10年、681年)より養老元年(717年)まで、千嶋は養老3年(719年)より天平勝宝元年(749年)まで奉仕したことになっています。そして伍佰道と愛志は上記の期間中熊野郡川上の庄海部の里にて奉仕しているのです。

伍佰道と愛志は、事実関係はさて置いて、系図に丹波国造と記載されており、「丹後舊事記」には大矢田宿禰が海部の矢須の里を国府としたとあることから、丹波国の国府がある(とされる)海部の里に居住し陵神社の祭祀を司っていたのは間違いないと判断されます。600年代から700年代の状況から判断すると、遠い古代に海部氏が元伊勢与佐宮に当たる真名井神社において丹波国に降臨した豊受大神の祭祀を司り、崇神天皇の御代に天照大神の元伊勢与佐宮に関与していた可能性は低いものと思われます。

さらに決定的なのは、戊申年(大化4年、648年)春正月七日、豊受大神が久志比の真名井原の籠の川辺に天下りたまい、神籬を起こして奉斎した、それでこれを籠宮という、と「勘注系図」に記されていることです。豊受大神が天下ったのは、天火明命が養老3年に籠宮に天下ったのと同様、海部氏(海部直愛志祝と海部直千嶋祝)によって勧請されたことを意味します。真名井神社における祭祀が648年から始まったのであれば、豊受大神やその後の崇神天皇の時代から海部氏による真名井神社の祭祀があったとは考えられません。

ただ、真名井神社の社殿背後には磐座があるので、弥生時代から当地で磐座信仰が存在していたことは間違いなさそうです。そうした聖地だったから海部氏は後に豊受大神を勧請したものと推察されます。

面白いことに、伍佰道から初めて名前の後に祝(はふり)が付きます。祝はもちろん神を祭祀する宮司を意味しており、伍佰道の時代になってどこか別の場所から豊受大神を現在の真名井神社鎮座地に勧請し、祭祀するようになったと考えられます。

整理すれば、海部氏が真名井神社鎮座地にて豊受大神を祀るようになったのは大化4年(648年)で、千嶋祝の時代の養老3年(719年)になって彼らは現在の籠神社鎮座地に移住し天火明命を祀るようになった。従って海部氏は豊受大神と天照大神の元伊勢与佐宮と直接的な関係はない、と纏められます。

「熱田神宮の謎を解く」にて書いていますが、「新修名古屋市史」には『「熱田本紀」孝徳天皇の大化元年に尾張の宿禰忠命等託宣によりて江崎の機綾村に遷し奉即今の大宮是なり』と記載あり、熱田神宮の実質的な創建も大化年間の初頭となっています。真名井神社と熱田神宮がほぼ同じ時期に創建されていることから、国家体制の定まったこの時点で主要な神社の整備が始まったようにも思えてきます。

では豊受大神はどこから勧請されたのでしょう?現時点では明確にできないものの、その場所こそが豊受大神と天照大神の本家本元・元伊勢与佐宮になると推定されます。この問題は重要なので、後の回でもっと詳しく見ていくことにします。

海部氏が元伊勢与佐宮に関与していないとしても、海部直都比は6世紀頃の人物と考えられ、彼らの系統が現在まで1500年近くも続き、しかも1300年もの長きに亘って籠神社に奉仕していることになります。つまり海部氏は、皇室と肩を並べるほどの長い歴史を有している訳で、それが高い評価を受け二つの系図が国宝に指定されたものと思われます。いかに海部氏が稀有な存在であるか理解されますね。

と言うところで話を陵神社に戻します。陵神社の由緒には「尚現今境内社の一たる一宮神社は」とあります。確信はないものの、撮影した境内社が多分一宮神社なのでしょう。山の裏側には陵神社古墳群があり、社名はこれらの古墳群に関係していると思われます。古墳は一般的な円墳で直径は20m以下のようです。

そうした古墳群の一つが丹波道主命になるとは思えず、「京都府熊野郡誌」も疑問視しています。陵神社の祭神に関しては神服連海部直(6世孫の建田勢命)、丹波道主命のどちらになるのかはっきりしません。古墳群の被葬者が海部氏の祖先であるとすれば、自分たちの先祖を祀っているのは間違いなさそうです。

陵神社の検討から多少なりとも海部氏の姿が見えてきましたので、次回も引き続き海部氏の検討を進めます。

         尾張氏の謎を解く その68に続く
スポンサーサイト
プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
05 | 2015/06 | 07
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる