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尾張氏の謎を解く その78


今回は比沼麻奈為神社を訪問しますが、その前に、久次岳山麓に伝わる月読命が豊受大神(実際には宇気持神、保食神)を斬った伝説と、「日本書紀」における同じ内容の話のどちらが本家・本元なのかと言った問題も探ってみたいと思います。

前回で見てきたように、久次岳山麓の月読命が豊受大神(実際には宇気持神、保食神)を斬った伝説と「日本書紀」の話は全く同じと言っていいほどの内容となっていました。では、久次岳山麓の伝説は「日本書紀」から引用した形で作られたものなのでしょうか?そうとは言い切れない気もするので、取り敢えずこの問題や月読命の神格についてあれこれ考えてみます。

「日本書紀」によれば、月読命は天照大神の勅命を受けて保食神の元に赴きました。これを久次岳山麓の伝説から現実的に考えてみます。酔石亭主の視点では、天照大神(八咫鏡を奉じる豊鋤入姫命)は府の丘にある丹波道主命(彦坐王)の館にいることになります。月読命も同様に府の丘にいたと仮定すれば、天照大神が月読命に保食神の元に降りろと命じられても直ちに赴けることになります。(注:月読命も府の丘にいたかどうかに関しては、後の回で検討します)

月読命も府の丘にいたとする場合、久次岳山麓においては天照大神、月読命、保食神の3神がほとんど同じ場所にいることになり、単なる神話ではなく具体性や現実感まで出てきます。言い換えれば、「日本書紀」に採用された神話の元ネタではないかと感じられるのです。

仮に久次岳山麓の話が「日本書紀」からの引用だとすると、この伝説が作られたのは8世紀に入ってからとなります。一方、保食神からステップアップした豊受大神を海部氏が真名井神社鎮座地に勧請したのは大化4年(648年)となるので、「日本書紀」からの引用とは考えられません。久次岳山麓の話は非常に古そうで、原初的な雰囲気さえ漂っています。

これらから、久次岳山麓に伝わる月読命が豊受大神(実際には宇気持神、保食神)を斬った話は「日本書紀」以前のものである可能性が高くなります。丹波国(後の丹後国)の伝説が「日本書紀」に取り入れられたとすれば、他にも同様の例があるかもしれません。

例えば、天孫降臨に際して天村雲命が天真名井の水を汲んで云々の話も、丹波国が元になっている可能性が出てきます。その内容はWikiによれば以下の通りです。

天真名井(あまのまない) - 槵触山山麓にあり、井の前を神代川(くましろ-)が流れる。天孫降臨に際して当地に水が無かったため、天村雲命が高天原に戻り、天真名井から汲んできた水を移したもの。

この話に似通った伝承が「丹後風土記残欠」の田造郷の記事の中にあります。虫食いが多いので正確ではありませんが、概略は以下の通り。

矢原山の南東3里ほどに霊泉湧き出たので、天村雲命はその泉で荒れた水を和ませた。それを真名井と言う。また傍に天吉葛(あまのよさつら)が生えており、匏(よさ、瓢箪)で真名井の水を盛り神饌を調進したので、真名井原匏宮と称する。

あくまで直観的な意見に過ぎませんが、残欠の話はどうも後から作ったような雰囲気があります。一方Wikiには、外宮の摂社の上御井神社に関して以下の記載がありました、

外宮神官家の度会氏の遠祖が高天原から日向国高千穂峰に持ち下り、丹波国天の真名井に移され、豊受大神の伊勢国への鎮座に伴い、井戸も移ったという伝承がある。

上御井神社の伝承は、天真名井の霊水が高天原→高千穂峰→丹波国→伊勢と移動したように書かれています。それぞれの伝承を時代の古い順から繋げたのでしょうか?天真名井に関してはどこが本家・本元か確たることが言えそうにありません。

度会氏の祖は天牟羅雲命とされ、当初は磯部を称していたようです。上記Wiki記事は外宮に伝わる「御鎮座伝記」や「御鎮座本記」などに見られる、天忍石乃長井乃水を日向高千穂乃宮の御井から但波真井原御井を経て、豊受宮乃御井に移した、と言う記事から引いているようです。機会があれば高千穂に出向き調べてみたいところです。

「日本書紀」における月読命と保食神の話は、久次岳が本家・本元の可能性がありそうな点を指摘して、次に比沼麻奈為神社を見に行きましょう。鎮座地は京丹後市峰山町久次宮谷510。主祭神が豊受大神、相殿神は瓊瓊杵尊、天之児屋根命、天之太玉命となっています。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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元伊勢豊受宮とあります。

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解説板。簡単な内容しかありません。

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松と境内社。

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鳥居を潜り少し歩いて振り返ります。

これだけ境内を清浄に保っている神社も少ないのではと思います。さすが伊勢神宮外宮の元伊勢を称するだけありますね。

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社殿へと至る石段と鳥居。
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巨木が神域感を高めています。

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社殿へと石段を登ります。

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社日塔。出雲系の神社に多い。

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社殿の建つ境内。

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拝殿と本殿。

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拝殿と本殿を位置を変えて撮影。

社殿の千木が気になります…。千木とは屋根の両端にある天に向けて突き出したX字状の部材のことです。

これで比沼麻奈為神社を一通り見終わりました。既に書いたように、同社が元伊勢与佐宮ではないとしたら、その位置付けはどうなるのでしょう?現時点での推測としては以下の通りです。

丹波道主命(彦坐王)の館は一時的な住居であり、数年後には丹波道主命(彦坐王)だけでなく、天照大神(八咫鏡)を奉じる豊鋤入姫命の一行もここを立ち去り大和に帰還しています。従ってそれ以降、神祭りの場は現在の比沼麻奈為神社鎮座地に移動したと考えられます。

そして雄略天皇の22年になり、豊受大神は比沼麻奈為神社から伊勢の地へと移り外宮に鎮座したと考えられます。その意味において比沼麻奈為神社が外宮の故地、元伊勢外宮を標榜することは可能ですが、実際には丹波道主命(彦坐王)の館に続く第二次元伊勢外宮の位置付けとなるはずです。但し、天照大神の元伊勢与佐宮とはなりません。

もちろん同社は、天照大神の元伊勢与佐宮と主張してはおらず、この部分における問題はないと理解されます。一方海部氏が与佐宮(真名井神社)を天照大神と豊受大神の2神の元伊勢とするのは、両神が丹波道主命(彦坐王)の館にて祀られていた経緯を知っていたからではないかとも推測されますが、いかがなものでしょう?

さて、原初の神である宇気持神を月読命が斬り殺したことは、宇気持神が豊受大神へと変容していく最初の契機となりました。それほど重要な役割を果たした月読命とはどんな神なのか、なぜ月読命が宇気持神を斬り殺す役を担ったのか、月読命は天照大神の身近にいたのか(言い換えれば、月読命は丹波道主命(彦坐王)の館にいたのか)などを次回で検討していきたいと思います。

         尾張氏の謎を解く その79に続く
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