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尾張氏の謎を解く その80

尾張氏の謎を解く
08 /04 2015

和奈佐夫婦系の海部氏は大化4年(648年)、豊受大神を比治の里から磐座信仰の地である真名井神社鎮座地に勧請しました。(注:和奈佐夫婦系の海部氏と書く場合、丹波道主命(彦坐王)に率いられて海部の里(久美浜町海士)から比治の里に入り、藤社神社の祭祀などを担った海部氏を意味しており、海部の里に居続けた海部氏とは分けて考える必要があります。この部分は後の回で詳しく書く予定です)

彼らは比治の里からどんなルートを通って天橋立の北側に至ったのでしょう?基本的には312号線に沿った動きになっていると思われます。峰山町五箇から312号線を東に進み、竹野川を越えて大きく南に折れそのまま進むと京丹後市大宮町周枳(すき)に至ります。そこに丹後国二宮の大宮売神社(おおみやめじんじゃ)が鎮座していました。今回、時間の関係で同社を訪問してはいないのですが、参考までに概要をチェックしてみます。


大宮売神社の位置を示すグーグル地図画像。

まず同社概要をWikipediaより引用します。

天照大神に仕え天皇を守護する八神の一柱であり、織物と酒造を司る大宮売神(おおみやめのかみ)、食物・穀物を司る女神である若宮売神(わかみやめのかみ、豊受大神)の二神を祀る。
草創の年代は不詳だが、境内から出土する多数の遺物から証せられるように、この地は遠き古代弥生時代の頃に、古代天皇家の祭祀を司った人々の生活があり、稲作民による祭祀呪術的な権力を持つ豪族の国(大丹波)の祭政の中心の地であったといわれる。当宮の境内は、神社としての社ができる以前に、既に古代の政(まつりごと)が、おこなわれていた地である。6世紀と思われる頃、大和朝廷に統一された大宮売神は、宮中八神殿の一柱で造酒司(みきつかさ)にも奉斎され、この神を祭る最も古い社といわれる。「新抄格勅符抄」によると大同元年(806年)に神封七戸を得たとされ、大宮売神に神領二千五百石、若宮売神に千五百石の神封が充てられ貞観元年(859年)には従五位上の神階を賜わっている

写真は以下に多くありますので参照ください。
http://1717.main.jp/008.html

祭神は大宮売神が天鈿女命、若宮売神が豊受大神とされているようです。一般論としては大宮売神=天鈿女命で問題なさそうですが、地域性と両神の関連性を考慮した場合疑問が湧いてきます。「丹後舊事記」に大宮売神社の記載があるので参照したところ、正一位大宮売大明神、天稲倉豊宇気持神也。従一位若宮売大明神、豊宇賀能咩命也とありました。「丹後舊事記」の大宮売神社記事は近代デジタルライブラリのコマ番号93番にありますので、以下でチェックください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175321

天稲倉豊宇気持神は要するに宇気持神で保食神となり、豊宇賀能咩命(豊宇賀能売命)は今まで詳しく見てきたように保食神を祀る巫女となります。よって、大宮売神社の祭神を整理し直せば、大宮売神=宇気持神(保食神)、若宮売神=豊宇賀能売命(巫女、天女)となるでしょう。祭神だけからの判断ですが、これは久次岳山麓における状況とほぼ同様です。この場所にも丹波道主命(彦坐王)が来たのでしょうか?

Wikiに大宮売神は酒造りを司る神とありますが、「丹後国風土記逸文」の奈具の社の項には、天女(豊宇賀能売命)は酒を造るのがうまかった、とあります。逸文によると天女(豊宇賀能売命)は酒を造るのがうまく、Wikiでは大宮売神(=宇気持神)が酒造りを司るとあって、どうもすっきりしません。どちらが酒造りの神かはさて置き、「丹後舊事記」の方が丹波の実態に即した祭神になっているような気がします。

大宮売神社の神域内からはWikiにも記載あるように、壷や曲玉、勾玉など古代の祭祀に使われたと思われる遺物が出土しています。この祭祀は祭神から判断して、若宮売神(豊宇賀能売命、巫女、天女)が大宮売神(宇気持神、保食神)を祀るもので、壷や曲玉、勾玉などの遺物はこれらの祭祀に使用された祭具と考えましたが、その場合説明できない部分が出てきます。

大宮売神社は古代の祭祀場の上に建てられており、Wikiの記述からして祭祀場は弥生時代後期(3世紀の中頃)から古墳時代前期頃のものと推定されます。となると、崇神天皇より古い時代からこの場所で何らかの祭祀が執り行われていたことになります。一方宇気持神(保食神)と豊宇賀能売命(巫女、天女)の話は崇神天皇の時代であり、それ以前に大宮売神社鎮座地で執行されていた祭祀とは関係なくなるのです。

ところがです。大宮売神社鎮座地の出土物は三輪山の山ノ神遺跡から発掘された勾玉や土器などに酷似しているとのこと。山ノ神遺跡からは4世紀後半から6世紀にかけての碧玉製勾玉など多くの遺物が出土しました。詳細は以下を参照ください。
http://inoues.net/club3/yamanobe2008_miwam.html

大宮売神社鎮座地出土の祭具は弥生時代後期(3世紀の中頃)から古墳時代前期頃のもので、山ノ神遺跡からは4世紀後半から6世紀にかけての碧玉製勾玉や土器が出土し、両者が酷似しているとすると、時代的に1世紀程度のずれがあることになり矛盾しています。(注:一般的な資料だけを参考にしていますので、時代差がある点が正しいかどうか保証はできません)

一方大宮売神社には、崇神天皇の10年に丹波道主命が若宮売神を祀ったとの説もあるそうです。やはりとも思えますが、和奈佐夫婦系海部氏の動きを探っていたつもりなのに、丹波道主命が出てきました。本当にややこしいですね。丹波道主命(彦坐王)が天照大神(豊鋤入姫命一行)を護りながら大和へ帰還途中に立ち寄り、久次岳山麓における神祭りをこの地に残していったのでしょうか?

或いは、大宮売神社も大江町の元伊勢三社と同じく天照大神の移動途中における元伊勢与佐宮なのでしょうか?天照大神の元伊勢と関係しそうな資料がないか探してみます。「丹後国式内神社取調書」には、大宮能売神の霊璽も崇神天皇の御代に天照大神と共にこの国(丹波、後の丹後国)に入って周枳村に鎮座したとありました。この書き方であれば、天照大神が丹波道主命(彦坐王)に護られて丹波に入ったとする酔石亭主の主張を裏付けるものにはなりそうです。

けれども、天照大神と大宮能売神の丹波入国後の動き方は別々のような書き方となっており、大宮売神社が天照大神の元伊勢与佐宮とは言えません。それは祭神に天照大神がいないことからも確認できます。まあ、「丹後国式内神社取調書」の内容自体が幾つかの矛盾を抱えているようなので、どこまで信頼性があるか何とも言えませんが…。

どうも一貫した筋で整理できそうになく頭を抱えてしまいます。ともあれ、上記の矛盾しそうな部分を何とか整合させた形に纏めてみましょう。

大宮売神社の境内地では3世紀中ごろから古代祭祀が行われていた。崇神天皇の10年頃、すなわち4世紀の前半頃に丹波道主命(彦坐王)が比治の里に入り、巫女たちに保食神を祀らせた。丹波道主命(彦坐王)は数年後に比治の里を出て312号線沿いに大和へと向かった。

その途中、古代祭祀の場である大宮売神社鎮座地(当時はもちろん神社などない)に立ち寄った。一行は古代信仰の場に巫女(豊宇賀能売命)が宇気持神(保食神)を祀る祭祀を持ち込むとともに、同地における各種祭具を大和に持ち帰った。それを手本にして4世紀後半から6世紀の大和において碧玉製勾玉や土器が作られ、三輪山の山ノ神遺跡(磐座祭祀の場)から大宮売神社出土の各種祭具に酷似したものが発掘された。


月読命が保食神を斬り殺した伝承が「日本書紀」の記述の元になっただけでなく、各種祭具まで丹波地方のものが大和に持ち込まれ使用されたていたとすれば、やはり丹波の実力はただならぬものがあったと言えそうです。

あまりの暑さで頭も回らずうまく整理できていませんが、大宮売神社出土の各種祭具と三輪山の山ノ神遺跡から出土した祭具が酷似している背後には、丹波道主命(彦坐王)の存在があったと理解されます。

それにしても、丹波国(後の丹後国の領域部分)は保食神と豊宇賀能売命(巫女、天女)の存在感が圧倒的だと理解されます。このような例は他地域においてあまり見られず、丹後国の持つ特殊性が際立っています。

          尾張氏の謎を解く その81に続く
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酔石亭主

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