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尾張氏の謎を解く その86

尾張氏の謎を解く
08 /11 2015

和奈佐夫婦系の海部氏が持ち運んだ元伊勢与佐宮に関しては前回までで検討が終わりました。以上で丹波における謎解きもほぼ完了したと言っていいでしょう。ただ、元伊勢与佐宮に関しては他にも候補地があり、引き続き見ていく必要があります。

他の候補地とはもちろん、天照大神や豊受大神の移動に関連しているはずの元伊勢(大江町の元伊勢三社)です。まずは史料に当たってみます。デジタルライブラリ「加佐郡誌」のコマ番号59、60に関連しそうな記事がありました。内容は以下の通り。

当社は雄略天皇の22年天皇親しく天照大神の神誨(かみのおしえ)を受け丹波国丹波郡比沼の麻奈爲に座す豊受大神を伊勢国度會の外宮に遷し奉った時暫く河守天田内の里である船岡山に鎮座ましましたのに起因する由…以下略

この記事は明らかに豊受大神の移動に伴う元伊勢として書かれています。天田内には豊受大神社(とようけだいじんじゃ)が鎮座していますので、この場所が豊受大神の元伊勢となりそうです。鎮座地は京都府福知山市大江町天田内東平178-2


鎮座地を示すグーグル画像。

河守天田内の里である船岡山に鎮座、と書かれていますが、船岡山は丹波道主命(彦坐王)の館跡がある丘の名前と同じです。従って、比治の里の比沼麻奈為神社で祀られていた豊受大神(或いはその前身の豊宇賀能売命)が伊勢への移動途中に逗留し、元の場所である船岡山の地名を持ち込んで元伊勢となった可能性も想定されます。画像で見る船岡山は古墳のような雰囲気もあります。船岡山のすぐ東隣に川が流れ、その東は山となっていますが、自然でこのような形になるとは考えにくいからです。

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宮司さんのお宅。

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簡単な解説板。

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石段。神域へと向かうに相応しい雰囲気があります。

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境内が見えてきました。

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拝殿。これは素晴らしい境内です。拝殿の左右は多賀之宮と土之宮です。

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拝殿をもう一枚。

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社殿をぐるりと取り囲むように境内社が並んでいます。壮観ですね。

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本殿です。千木は外削ぎとなっています。

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本殿をもう一枚。

本殿背後に御神木クラスの杉の巨木がありますが、その向こう側の杉はさらに幾星霜を経ているように思えます。

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杉の巨木。

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幹部分をもう一枚。

龍燈の杉とあり樹齢千五百年以上とのことです。これは凄い…。

豊受大神社の御祭神は豊受大神で相殿神として日子番能邇邇芸尊、天児屋根命、天太玉命が祀られています。同社の由緒は以下の通りです。

当社は、豊受大神をお祀りする神社で、正式社名は豊受大神社であるが、一般にその上に元伊勢外宮を冠してお呼びしている。大神は人類生存上一日も欠くことの出来ない衣食住の三大元を始め広く産業の守護神であり、崇敬者に篤き御加護を垂れさせ、給う大神に座します。社伝によれば、元伊勢内宮皇大神社に奉斉する皇祖天照大御神は人皇第十代崇神天皇三十九年に「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」と御神勅を下されたので、それまで祀られていた大和国笠縫邑より当地(大江町字内宮)に遷幸されたのであるが、此の時同時に豊受大神を当船岡山に合せ祀られたのが当社の創祀であり、いま(平成五年.1993年)から2051年前のことである。
境内は一名比沼の真名井ケ原と称へ孤立した一丘陵を形成し御神霊の鎮まり座すに相応しい神秘な霊域で一万余坪の御山である。
天照皇大神は四年間御鎮座になりましたが、さらに大宮地を求めて当地を出御され第十一代垂仁天皇二十五年に現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と崇められ御鎮座になった。しかし乍ら豊受大神は御鎮座以来移動がなくこの真名井ケ原に鎮まり給いて万民を恵み守護されたきた。ところが五百三十六年後の第二十一代雄略天皇二十二年に皇祖天照大神の御神勅が天皇に下った。その御神勅は「われすでに五十川上に鎮り居ると雖も一人にては楽しからず神餅をも安くきてしめすこと能はずと宣らして丹波の比沼の真名井に坐せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との御告げであったので、直ちに伊勢国度会の山田ケ原に外宮を建てられ、豊受大神を御遷座になったのである。今から数えて1513年のことである。しかしながら豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は引き続き大神の御分霊を奉斎して元伊勢外宮などと尊称し現在に及んでいる。

同社の由緒は、笠縫邑を出た天照大神が大江町字内宮(次回で訪問する皇大神社鎮座地)に鎮座し、それと同時に豊受大神を大江町天田に祀ったのが豊受大神社だとしています。

一方「加佐郡誌」は、雄略天皇の22年に天照大神の神誨(かみのおしえ)により丹波国丹波郡比沼の麻奈爲に座す豊受大神を伊勢国度會の外宮に遷したとき、河守天田内の里の船岡山に暫時鎮座したのが豊受大神社だとしています。

豊受大神社由緒と「加佐郡誌」の間には鎮座時期と内容に関して大きな乖離が見られます。どちらを採用すべきか悩ましいところですが、一通り検討してみましょう。「加佐郡誌」の見解はそのまま読んで特に違和感がありません。雄略天皇の時代に比治の里から豊受大神を伊勢に遷座させる際、暫く逗留した場所が豊受大神を祀る豊受大神社になった訳で、それを元伊勢と言えるかどうかは別として、ストーリー的には十分成り立ちそうな話です。

豊受大神社由緒の場合、崇神天皇の39年に天照大神が笠縫邑を出て鎮座したのが大江町字内宮に位置する皇大神社(=元伊勢与佐宮)で、それと同時に豊受大神を船岡山に合せ祀ったのが豊受大神社の創祀であるとしています。この書き方だと、天照大神と豊受大神の両神が共に笠縫邑を出て、豊受大神は大江町天田の船岡山に、天照大神は大江町字内宮に鎮座したように見えてしまい、疑問があります。

豊受大神が比治の里から勧請されたとする場合、大江町までは相当な距離があり、しかも幾つも山を越えなければ行き着けません。そうした条件下で、天照大神の大江町字内宮鎮座に合わせ比治の里から豊受大神を勧請するとしたら、その距離感からして同時と言うのは難しそうに思えます。

また豊受大神社の由緒の場合、比治の里で見られるような豊受大神の前史が全く存在していません。単に天照大神の鎮座と同時に豊受大神が船岡山で合わせ祀られたとするだけで、鎮座に至る経緯は何一つ語られていないのです。よって「加佐郡誌」の指摘通り、豊受大神が伊勢に遷座する際に暫時立ち寄った場所とするのが妥当だと思われます。

ここまで豊受大神社の由緒を否定するような見方を書いていますが、由緒に合わせられるような視点はないでしょうか?酔石亭主は、本家・本元の元伊勢与佐宮は丹波道主命(彦坐王)の館であり、保食神を祀った巫女(豊宇賀能売命)が天照大神を饗応したことから、豊受大神に変容したと考えています。従って、豊受大神と天照大神は同じ与佐宮にほぼ同時に鎮座した形となります。

その情報が後代になって大江町にまで伝えられ、豊受大神と天照大神がさほど離れてはいない位置に分祀され、その位置関係が伊勢神宮の外宮と内宮の位置関係に反映されたと考えれば、多少は元伊勢としての筋道が通ってきます。

他には、天照大神が大和に還幸する際大江町字内宮に立ち寄り、これに同行した豊受大神が大江町天田に留まって鎮座したのが豊受大神社だとすれば、無理やりですが由緒に合わせた形に近くなりそうです。

以上、豊受大神社の由緒と「加佐郡誌」をあれこれ比較検討してきました。比較した上でどちらが優位かと言えば、やはり「加佐郡誌」の記述がシンプルで受け入れやすそうです。ただ、「加佐郡誌」の見解はストーリー的に整合性がありそうだからこれを妥当と考えるだけで、実際がどうであったのかはまた別の話です。

豊受大神社は広大な神域の中に鎮まり、地元の信仰を集めている神社です。豊受大神の元伊勢かどうかは別としても、一度は訪問すべき場所であろうと思われます。

            尾張氏の謎を解く その87に続く
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酔石亭主

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