尾張氏の謎を解く その94


今回は前回の話を引き継いで、願成寺西墳之越古墳群に行ってみましょう。


願成寺西墳之越古墳群の位置を示すグーグル画像。

表示はありません。画像の下側のT字路になった辺りから入ると数多くの古墳が見られます。右上の森のような場所だけでなく、畑地の中のぼこぼこした形も古墳です。

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古墳。

池田山を背にして東に明るく開けた茶畑の中に古墳群があります。

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古墳群から眺望する濃尾平野の絶景。

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案内板。

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密集した古墳群。

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内部が見られる古墳。

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古墳内部。

古代の有力者は景色の良い高台を自分たちのお墓にしたようです。あの世に行っても自分たちの支配地を見ていたかったのでしょう。なお古墳群の詳細に関しては以下の池田町教育委員会のホームページに詳しいので参照ください。
http://www.town.ikeda.gifu.jp/kyouiku/rekibun/3-2/3-2/3-2.html

ホームページによれば最も古い古墳が5世紀後半、最も活発に古墳が築造されたのが6世紀末~7世紀後半、最後の埋葬が8世紀前半とのことです。最も古い古墳からは鉄剣や鉄鏃(てつぞく)が出土したそうですから、出土物から判断すると伊福部氏の墓だったのかもしれません。(注:別に伊福部氏の墓でなくても鉄剣や鉄鏃は出土するので、上記は単なる希望的な想像です)

最も活発に古墳が築造された時期の終わり頃は天武天皇の時代とほぼ重なっています。壬申の乱が672年で天武天皇の死去が686年ですから、天皇の死と共にこの古墳群も終末期に入ったのではないでしょうか?

既に書いたように、湯沐邑は大海人皇子(後の天武天皇)の食封であり、金属系の軍事部民を主体とした各郷は大海人皇子を軍事的に支えていました。壬申の乱に大きな役割を果たした湯沐邑も、天武天皇の死去と共に解体・再編成された可能性があります。古墳の築造自体が終末期となった時代の趨勢もありますが、湯沐邑の解体・再編成と言った経緯は、願成寺西墳之越古墳群が終わりを迎える要因の一つとなったのかもしれません。

            尾張氏の謎を解く その95に続く
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