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尾張氏の謎を解く その92

尾張氏の謎を解く
09 /26 2015

今回は伊富岐神社の続きです。まず同社の祭神ですが幾つかの説があります。

最初の説としてWikiには「多多美彦命(夷服岳神、気吹男神、伊富岐神ともいう 伊吹山の神)」とありました。これは近江の伊夫岐神社と同じで、「近江国風土記逸文」や「帝王編年記」養老七年の条を参考にして考えられた説と思われます。(注:伊富岐神社に関するWikipediaの記事は以下を参照ください)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%AF%8C%E5%B2%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE

そもそも伊夫岐神社と伊富岐神社は表記が違うだけで、実態は同じ神社と考えて間違いなさそうです。(注:伊夫岐神社に関しては「その39」を参照ください)

次の説は八岐大蛇で、これも伊夫岐神社と同じです。後の回で詳しく書きますが、八岐大蛇の八岐(やまた)は(やぎ)とも読めることから、八木の表記に繋がり、八木は伊福部氏に関係した名前となります。従って、八岐大蛇は伊福部氏を意味していると考えられます。

八岐大蛇はご存知のように出雲国で最初に出現します。そして彦坐王の遠征部隊には、鏡(天火明命)を奉じる大和の伊福部氏のみならず、出雲や因幡の息吹く民(伊福部氏)も従軍していました。美濃における彼らの存在が影響を与え、後代になって八岐大蛇説が出てきたとも推測されます。但し、美濃・尾張に入った出雲、因幡系の息吹く民も、大和王権により伊福部氏として系列化された後は天火明命を祖神とする形に転換を余儀なくされたものと思われます。

「真清田神社史」に記載の「真清探桃集」巻之第一(佐分清円著)には、「尊神(天火明命)鎮座の時、八頭八尾の大龍に乗りたまふ。当国をもって八郡に割分するものも、またこの八尾の候に因る。」とあります。この奇怪な説の意味を読み解くには、ある程度の整理が必要です。

単純に考えれば、上記の伝説は、伊福部氏が鏡(天火明命)を奉じながら尾張に入った事実を象徴的・伝説的に記載したものであると思われます。これを、鏡(天火明命)を奉じる大和系の伊福部氏と出雲、因幡系の息吹く民(伊福部氏)の複合した伝説と捉えてみます。

すると、天火明命(大和系伊福部氏を象徴)が八頭八尾の大龍(出雲、因幡系伊福部氏を象徴)に乗って尾張に降臨したとの話になり、鏡(天火明命)を奉じる大和系の伊福部氏が出雲、因幡系の息吹く民より上位の立場で美濃経由尾張に入ったと推定できることになります。いずれにしても、彦坐王に率いられて美濃・尾張に入った伊福部氏は、酔石亭主が推測するように大和系と出雲、因幡系の二つの系統があった点は上記の伝説から確認されると思います。

3番目は伊夫岐神社とは異なり、天火明命を祭神とする説で、「新撰姓氏録」の左京神別などに、「伊福部宿彌、尾張連同祖、火明命之後也。」とある点から唱えられたものと推定されます。けれども、それならなぜ近江の伊夫岐神社祭神に天火明命がいないのでしょう?

当時、近江の一帯は先進地域でした。あくまで想像ですが、そうした地域では鏡など威信財にならないと考えたのかもしれません。一方、不破の地峡帯を越えた美濃・尾張などは大和王権の支配がまだ及んでいない地域であるため、鏡(天火明命)の存在が王権の威信を示す威信財として効力を発揮したとも考えられます。(注:大和と尾張の間では崇神天皇以前にも東海系土器などを通じて交流はあったようです)

他には鎮座場所が影響している可能性もあります。伊夫岐神社は近江に鎮座し、伊富岐神社は美濃に鎮座しています。美濃は尾張に接しており、尾張氏の影響が及んだことから後代になって天火明命が祭神に加えられたとも思えます。調べてみると、美濃に対する尾張の影響を証明するものが壬申の乱にありました。

672年に起きた壬申の乱において、大海人皇子は不破の野上行宮に入ったとされます。野上行宮は驚いたことに尾張大隅の私邸でした。「続日本紀」に、「尾張宿禰大隅の功による功田四十町は、兵を興された天武天皇の先払いとなり、私邸を掃い浄めて行宮とし、軍費を援助した功績による。」と言った趣旨の記述があることから、彼の私邸が行宮になったのはほぼ間違いありません。野上行宮に関しては以下の関ヶ原観光Webを参照ください。
http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=89

軍費の部分は当時尾張氏の傘下となっていた伊福部氏による武器の提供と推定されます。伊福部氏の重要拠点である場所に尾張氏の私邸まで存在していたのですから、壬申の乱時点で、伊福部氏が尾張氏に従属する立場にあった可能性は大と言えるでしょう。(注:実際には建稲種命以降その傾向が強まっていったと思われます)

鏡(天火明命)を奉じて美濃・尾張に進軍した伊福部氏とその後裔は天火明命を重要視していたはずです。一方年魚市潟(あゆちがた)の周辺部で発祥した(と思われる)尾張氏は5世紀から6世紀にかけて尾張全体を自分たちの勢力下に置き、朝廷を支えるほどの存在になってきます。

尾張氏は大和編で書いたように初期天皇の系図捏造に協力しました。天皇家の系図捏造に加担した背後には彼らなりの思惑があったはずです。系図の協力には系図で返してもらう。そう考えた尾張氏は、協力の見返りとして自分たちの系図の初代を天火明命にしたいと奏上し、承認を得たのです。

天火明命は天皇家の祖神である天照大神の御魂と位置付けられる存在ですから、これ以上の褒賞はありません。伊福部氏にしてみれば先祖が奉戴していた神を尾張氏に奪われたようなものですが、朝廷の意向に逆らうなどできるはずもなく、また当時は尾張氏に従属する立場であり、自動的に尾張氏同祖とならざるを得なくなったのです。

このため、「新撰姓氏録」(嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑)において、伊福部氏は尾張連同祖で火明命後裔として申告することになったと推定されます。既に書いたように、左京神別下では「伊福部宿祢 尾張連同祖 火明命之後也」と記載されています。また大和国神別では、「伊福部宿祢 天火明命子天香山命之後也。伊福部連 伊福部宿祢同祖」とも書かれています。こちらは天香山命が祖神であると強調しているように思えます。

一方、因幡国の伊福部氏は美濃・尾張の伊福部氏とは全く異なる系図を持ち、初代が大己貴命で第八代がニギハヤヒとなっており、出雲族と物部氏に接続させています。地域によって息吹く民(後代の伊福部氏)の祖神・祭神は異なっていたのです。それが美濃・尾張において、天火明命や天香山命となったのは上記した様々な事情・経緯があったからと推定されます。

また、吉田家本「神名帳」には因幡国の宇倍神社(伊福部氏が関係する)に関して、竹内宿祢(武内宿禰)垂迹の地であると記載され、さらに彼は当国宇部山、大和葛城堺、美濃国不破ノ関、の三ヶ国に同日同時に顕現したとあります。この三か所に共通するのは、竹内宿祢ではなく伊福部氏であり、彼らが三ヶ国に同時に現れたと言う意味を込めて書かれたと判断されます。

もちろん伊福部氏が同時に異なる場所に現れるのは不可能で、大和葛城堺にいた伊福部氏が、彦坐王に率いられて因幡国の宇部山に行き、続いて美濃国不破ノ関に移動したことを意味しています。宇倍神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われる。『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが当社の創祀かもしれない。吉田家本『延喜式神名帳』には、仁徳天皇55年、三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずになったとある。なお、本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部であり、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたとされる。当地は遺跡が多く、国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心であり、当社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列し、同一宮とされた。

話は変わります。大海人皇子は野上の行宮を出て、不破の桃配山に陣を置きました。この山名は大海人皇子が全軍の兵士に不老不死の象徴である桃を配り戦いに快勝したことに由来しています。その故事にならったのか徳川家康は、関ヶ原の戦いにおいて桃配山に最初の陣を置いて西軍を打ち破ったのです。桃配山の位置関係など詳細は関ヶ原Webを参照ください。結構しっかり書かれていますので参考になります。
http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=104

なお、荒山徹氏の伝奇小説「石田三成」を読むと、壬申の乱と関ヶ原の戦いの場面が交互に描かれ、最後に両方をうまくドッキングさせています。なかなかの筆力だと思われますし、わかりやすく書かれているので参考になります。お時間があればご一読ください。

伊富岐神社の祭神の話がかなり脱線したので元に戻しましょう。祭神に関する最後の説が草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)です。美濃国の歴史史料である「美濃國雑事記」など多くの地元史料はこの説を採用しています。草葦不合尊は山幸彦である彦火火出見尊と海神系の豊玉姫の子になりますが、なぜここに登場してくるのか理解できません。

尾張氏の本流となる天忍人命が豊玉姫の弟に当たる振魂命の子・天前玉命と同一神ともされていることが影響しているのでしょうか?系図によっては前玉彦神(=天前玉命=天忍人命)が天火明命に相当していることから、草葦不合尊説が出たのかもしれませんが、まあ、わからないとするしかなさそうです。

祭神の検討はここまでにして、拝殿の屋根をご覧ください。拝殿屋根の銅葺き鬼瓦は○の紋となっています。鏡を意味しているようにも思えますが…。

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拝殿の屋根。次に拝殿の内部を見てみます。

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拝殿内部の鏡。鏡は太陽を象徴するものなので、その台は雲形となっています。

鏡は一般的に神社のご神体となっており、神様の依代である鏡を拝殿の神前に置く場合も少なからずありますが、本来的には本殿内部に安置されるべきものと思われます。それが参拝者から見える場所に掲げられているのには、何らかの意味がありそうです。

この鏡は拝殿の屋根飾りの○(=鏡)と対応し、美濃・尾張遠征部隊のメンバーである伊福部氏が鏡(=天火明命)を奉じながら移動した遠い記憶が表現されているのではないでしょうか?まあ、これは単なる想像に過ぎませんが…。

次に境内社を見ていきます。「不破郡史」によれば、本殿が正一位伊福大明神で本殿左右に鎮座する境内社が、正四位下伊福貴一御子明神から順に9番目の従五位上九御子明神まであるとのことです。回廊の中には入れないので、赤い屋根の境内社しか見えません。

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境内社の屋根。

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もう一枚。

伊福大明神には天火明命が当てられ、伊福貴一御子明神が天香語山命で以下、天村雲命、天忍人命、天戸目命、建斗米命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命と続き、最後の9番目に若都保命が当てられています。この若都保命が美濃における伊福部氏の祖となります。伊福部氏が尾張氏系図の中にしっかり位置付けされていると理解されますね。主要豪族の系図作成には朝廷が介入し、様々な豪族を系列化させていったのでしょう。尾張氏だけでなく、他の数多くの氏族も尾張氏から派生する形で系列化され、後世における混乱の元を作ったのです。

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神社周辺の光景。

伊富岐神社の検討がずいぶん長くなりました。次回以降も美濃における伊福部氏の動きを検討していきます。

          尾張氏の謎を解く その93に続く
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酔石亭主

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